単なる甘えん坊

昨日は雲が多くて日が陰った割に、随分暑かった。ムンムンする暑さで湿度が高い。天気予報によると今年は例年より暑くなるらしいと職人が言う。僕が少し前に見た予報では例年より低めと言ってたような気がするが。
▼昨年のブログでも指摘したように夏は暑いのが当たり前だが、少し暑い日が続くとすぐに大騒ぎになるので、気象予報士も下手に例年より低いと言いにくいという面もあるだろう。もうひとつは、いわゆるヒートアイランド地球温暖化の影響で、平均気温が確実に上昇しているのではないかということ。
▼その年の海水温とか偏西風とか高気圧の勢力とか、純粋に気象上のデータでいえば確かに他の年に比べて低いはずなのに、そういう年次の気温変化が、ここ数年の全体的な上昇ペースに飲み込まれてしまった。例えば全体的に3度温暖化していれば、平均気温30度の年次気象条件的には涼しいはずの夏も平均気温33度の猛暑になる。平均気温33度の年次気象条件的には普通の夏は平均36度の酷暑。前者が今年、一昨年のスーパー酷暑が後者だ。年次気象条件的に暑い夏の場合…死ぬな。いや、死ぬね。
▼埼玉県の熊谷や愛知の瀬戸や多治見、京都奈良の内陸部や盆地など、その昔社会科で習った頃から気温が高いことで有名な地方はあった。その年一番の暑い日に、天気予報が37度とか38度とか言うのを聞いて感嘆の声を上げたものだ。今じゃ名古屋あたりの夏は毎日そのくらいまで上がるし、前述の地方ではその年一番どころか梅雨明け早々から39度台を連発する。そしてそこにこの世界では無名の九州や瀬戸内、山陰の地名が続く。
▼多分暑さの質が違うのだ。僕や諸田玲子さんが夏は暑いのが当たり前という暑さ、昔の九州や四国の夏の暑さとは。僕が子供の頃は巨大な入道雲の沸き立つ真っ青な空の下、日が暮れるまで外で遊んでも熱中症なんてならなかった。日射病はあっても熱中症なんて言葉がそもそもなかった。今の子は校長先生の話が少し長引いたら倒れてしまうだろう。
▼暑さに対する我々の耐性の方にも問題が生じている。仕事中、身体に浸透しやすいスポドリをいくら補給したところで、仕事が終わって生ビールを胃袋に何杯放り込んだところで、渇きを癒すには足りない。それは人が生きていくために必要な命の水ではないからだ。
▼麦藁にランニング姿の子供の額に浮かぶ玉の汗を母親がタオルで拭ってやる。よく冷えた麦茶をコップに注いでやる。茣蓙に眠る子の横でそっと団扇を煽いでやる。人間に必要な潤いとはそういったものである。それは母親しか与えてやることができないものだ。現代は暑いだけでなく潤いが足りない。父親だけでなく母親もいない。
母あおぐ団扇の下で昼寝かな
▼さて、暑い夏に相応しいウチゴハン劇場。月曜はトマトの冷製ソバ。

火曜はソーメンで写真なし。妻がヨガに行く水曜は定番のカレー作り置き。

細かく刻んだセロリが二本も入った香草テイストのキーマカリーは最高の一品だったが、僕は妻が帰ってくるまで食べなかった。自分でよそえばせっかくの料理の味が台無しになる。よそってテーブルに並べてもらうまで全部妻にしてもらわないとダメなのだ。これは男女平等とか家事の分担とかいう問題じゃない。味気ない人生でもいいのかという問題だ。そういう人はそういう人同士で結婚したらよろしい。僕はイヤだけど。
▼ああ、僕も学生の頃はボーボワールからシモーヌヴェイユ上野千鶴子から小倉千加子まで横断的に斜め読みしてフェミニストを自認したものだが、原体験でお母さんに靴下まで履かせてもらってちゃどうしようもないな。世の働く女性たちからしたら最低の夫かもしれないが、そんな男に限って最高の妻がやってくるものだ。