アベノミクスよりアベマリア

昨日今日と今年一番の冷え込みである。このあたりではめずらしく最高気温が10度を切った。一年で一番寒い時期だ。あー早くあったかくならないかな。ついこの前年末だったのに、いつのまにか年が明けて、早くも通常営業だ。歳月は人を待たないね。
▼さて、新年早々国内最大のブンガクイベント、芥川賞の受賞作が発表された。近年エンタメ系の直木賞より純文学系の芥川賞の方が、作品そのものより作者の話題性が先行する傾向にあるのは皮肉なことだ。出版不況に喘ぐ業界にとって、売れる本を量産する作家は金の卵を産むニワトリだ。長く活躍が期待できる上、耳目をひく若く美しい作家を待望するのは無理からぬことかもしれない。
▼今年は受賞すれば史上最年少となる京大医学部生と、こちらも受賞すれば最高齢となる75才の争いだったが、審査員の圧倒的支持を集めたのは75才の方だった。五歳の時から書き始め、大学で同人誌を主宰し、25の時に某文学新人賞を受賞した。文学的には早熟といえるだろう。だが彼女は、以後文学賞や出版社への応募をやめ、ひたすら発表するあてのない作品を書きためてきたという。
▼話は変わるが、先日見た映画「桃さんのしあわせ」のコメントを書くにあたって、ネットでクレジットを調べていたら、偶然とあるブロガーの「漱石の坊ちゃんでいうところの清」という感想にぶつかった。いくらフロベールが近代小説の始祖とはいえ、国民的作家夏目漱石知名度にはかなわない。比較の対象としては彼に軍配があがるだろう。くそー、負けた。仕事ができないとバカにされるよりよっぽど悔しいな。
▼ご承知のとおり、清は坊ちゃんが四国松山の中学に赴任している際東京に残してきた女性である。それ以上特段の情報がないのでなんともいえないが、桃さんやフェリシテと似たような立場の人であることはまちがいない。雇い主の息子を溺愛するところも似ている。下女といい召使というと古臭いが、お手伝いさんや家政婦というと語弊がある。こういう人を呼ぶもっと別の言い方があったような気がする。
▼冬休みに読んだ「母親ウエスタン」のテーマはなんだろうと、ずっと考えていた。最愛の息子を残して家を出なければならなかった自らの不幸な結婚生活の代償に、父子家庭の父親に近づき家庭に入り込む女性。数か月から数年とまちまちだが、それぞれの家庭で母親が必要な期間だけ子供の世話をすると、また次の家庭へ移ってゆく。これもただの「母親代わり」とも「子守」とも違う、もっとしっくりくる言い方があったような気がする。
▼子供たちを一か所に集めて面倒を見る保母さんや、家族が不在の時、うちで子供の世話をするベビーシッターという職業もあるが、彼女はそうしなかった。それは子供の世話をするという行為が、単なる職業を超えた個人的なものだからだ。これは介護にもいえることだが、人が人の世話をするということには、どこまでいっても外部化や職業化に不向きな要素が残る。そしてそれは受け手側だけの問題ではない。だから彼女は現代社会においてカウボーイにならざるをえなかった。
▼ただひたすらに血のつながりのない子供の世話をする女性のことを、昔は乳母といった。それは職業として割り切るにはあまりに親密だが、家族というには影の薄い不思議な存在である。それは人間関係の完全には社会化できない部分を汲みとってあまりある存在だった。戦前までは、日本にもそのような役割が機能していた。それともこれも女性には迷惑な男の勝手な聖母崇拝、母性神話なのだろうか。


水曜はカレー、木曜はカニグラタンと先日のランチと同じ献立。影響されやすい妻。


昨日はカボチャサラダとドイツパンのチーズのせに明太クリームパスタ。妻は召使や下女というにはあまりに気位が高いが、不思議に母性の塊のような女である。