愛惜の情

雲ひとつない冬晴れだがとにかく寒い。凍てつく真冬の空気だ。耳や鼻がじんじんする。いよいよ地獄の2月に入った。のっけから日曜作業である。覚悟の月になる。
▼こう着状態が続いていた「イスラム国」による日本人拘束事件が、後藤さん殺害という最悪の形で終止符が打たれた。ニュースは昨日からこればっかりだ。ていうかここ二週間ずっとこればっかりだけど。ジハーディ・ジョンの声明文の読み上げ方はまるでラップだな。さすが元ラッパーだ。こんなバカに危険なお遊戯の場を与えたのも全ては米英両国のご都合主義のせいだから、巻き込まれた日本人としては腹立たしい限りだ。
▼昨日のNスぺで元米国情報局長官は、「イスラム国」の指導者バグダディが、イラク戦争後の米国統治下で二度拘束され、二度とも釈放されていたことを明かした。彼は拘束中に収容所で現在の「イスラム国」幹部と知り合って意気投合したという。また、「イスラム国」を構成する中核メンバーは、イラク戦争で米国に打倒されたフセイン政権下の主流派、イスラムスンニ派の残党らしい。
▼地上部隊の投入なしに空爆だけでは効果は限定的だとか、バグダディさえ釈放していなければ…という問題じゃないことは子どもでもわかる。仮にバグダディを葬ったところで、第二第三のバグダディが現れるのは必定だ。アメリカ先住民のように一国の国民を全て根絶やしにするというのなら別だけど。
▼では残った人々を屈服させ馴致することは可能なのか。ある民族の構成員全てが、異なる言語、文化、風俗、習慣を持った占領国の意のままになるのは、むしろめずらしいのではないか。アメリカに戦争で負けた日本は、その歴史上極めてレアなケースに属するだろう。
▼「イスラム国」の目的が本当はなんだったのか、事件発生から今日まで、中東専門家による様々な推測がなされてきたが、今となってはもう詮無きことだ。ただひたすら虚しいだけ。テレビでは修正されているが、ネット上では先に処刑された米国人から後藤さんまで、その残虐な映像をまんまで見ることができる。それを子供がYou tubeで見るのを止めることができない。なんという世の中だろう。
▼さあ、僕ももうこの辺でやめておこう。よく知りもしないことにいつまでも拘泥していてもしょうがない。結局仕事が忙しいと、仕事か、さもなくばニュースで見聞きしたこと以外に外界との接点がなくなってしまうのが問題だ。次第に書くネタがなくなり、時事ネタの比重が増してくる。
▼僕が今やっている工事は、事業所の集約計画の一環で、工場の用途変更に伴う廃却業務だ。今日いっしょに休憩していた客先の担当者が、ふと「さみしいなあ」ともらしたのをきいてハッとした。彼自身、この工事が終われば定年退職を迎える。僕は職業柄この手の工事に携る機会が多いが、正直この種の感慨にとらわれることはなかった。
▼その時ある記憶が甦った。高校の柔道部の恩師がまだ存命の頃の、ある年の初稽古の時のことである。ちょうど新しい道場の建て替え工事中で、稽古は仮設のプレハブ小屋で行われていた。練習後の挨拶に立った先生がこうおっしゃるのをきいて、僕は少なからずショックを受けた。「さっき○×が「わたしたちが練習した道場がなくなってさみしい」と言ってきたけど俺もそう思う…」
▼自分には何か人間として大切な感覚が欠けているのではないか。かけがえのないものについての感受性が欠如しているのではないだろうか。そんな大げさな言い方でなければ、愛着といってもいいかもしれない。それは遥か彼方の高邁な理想世界にではなく、ごく身近な日々の生活の中にある。
▼こじつけのようだが、彼らに欠けているのもこの感覚ではないだろうか。生まれてこの方愛着のある人や事物に巡り合ったことがない。そのような暮らしを送ったことがない。大それたことを考える輩には、ささやかな幸福はけして訪れないだろう。

土曜は凍てつく中を作業場の近くまできてくれた妻と下の子と現場を抜け出してラーメン。寒い夜だったので余計においしく感じた。

日曜はミルフィーユ鍋に里芋グラタンに海老ポテサラダ。

そして今日はキッシュに焼肉。
▼会社に戻る途中、カーラジオのハイファイセット特集に癒された。束の間、つたない自分の青春時代のことを思い出して泣けた。