○×△太郎論

蒸し暑い。気象庁の長期予報では、どうやら今夏は猛暑で決まりのようだ。
▼最近会う人会う人に「太ったね」と言われる。年々腹が出て衣替えの都度注文のズボンのサイズが上がるので、自分でも明確に自覚はある。こちらに越してきた13年前が85キロ。今現在大台目前なので、ざっと年1キロずつ増えている勘定だ。生活習慣が特に変化した感覚はないが、食べる量が変わらなくても年をとれば代謝が悪くなるのだから身体にたまって当然だ。通じも悪く体調もよくない。
▼現状を維持するためには、現状のままではダメである。食べる量を減らすか運動量を増やすしかない。万歩計をつけている監督によれば、広い事業所を1日ウロウロしてるだけで一万二千歩くらいにはなるらしい。年度末で忙しく動き回っていればいい運動になる。それが現場がないと一日中車か会社の椅子に座っているだけなのだから断食してもいいくらいだ。
▼水曜は日曜の代休。平日に代休がとれるこの時期は恒例のアウトレットモールだ。確かにいつも天候不順で蒸し暑い気がする。ヨガ朝練の妻の帰りを待って曇天の昼前に出発。東に行けば集中工事、西は一日遅れればサミットの交通規制が待っているギリギリのタイミングだ。到着と同時にフードコートで腹拵え。僕は親子丼、妻は全粒粉ブレッドのサンド。

▼結婚以来妻のショッピングにつきあううち、食べ物以外の買物にもようやく慣れてきた。今回の目的は普段使いのサイフと夏用のフォーマルのズボン。その他私用のポロシャツに短パンもゲット。同じカジュアルでも普段着のユニクロとは区別している。それから子供たちのTシャツに上の子の靴。僕の靴を勝手に履いているうちに水虫がうつってしまったので同じのを買ってやった。
▼つい2、3年前までは自分に何が似合うかどころか、何が足りないか何が必要かもわからなかった。一番には経済的な理由が大きい。妻と子供たちに恥ずかしい思いをさせないだけで精一杯だった。制服(作業着)以外ろくに着るものもなかった。フォーマルは会社が作ってくれた冬物の背広一枚きり。一年中それを着ていた。
▼五十を目前にして、ようやく自分に似合う服、というより社会人として最低限必要なワードローブがあると気づいた。夏に冬物はおかしい。冬に夏物は寒くて物理的にありえないが、本当はその逆もありえない。去年やっと夏物のズボンとシャツを買い、今回同じ店でもうワンセット買った。まだドキドキするが、飲みに行くと思えば安いものだ。
▼これは何も今に始まったことではない。普通ならおしゃれを競って当然の若い頃から僕はずっとそうだった。自意識過剰で人一倍恰好を気にしているくせに、そういう俗っぽいことに夢中になる連中を馬鹿にしていた。本当はセンスがないことがバレるのが怖くて、わざと興味がないフリをしていただけなのだ。
▼底が知れることを恐れて何事にものめり込めない。勉学、趣味、恋愛、仕事…全てにおいて共通するこの僕の行動原理はいったい何に起因するのだろう。何にも手を出さないことで、誰からも批判されない立場を守り、かろうじてプライドを保つうち、いつしか五十になってしまった。さみしい人生だな。
▼詩人で弁護士の中村稔氏の「萩原朔太郎論」を読了。中村稔は「人間に関する断章」「私の詩歌逍遥」「私の昭和史」などを読んだ。これらの著作の中でも氏は朔太郎に触れ、生涯定職に就かず実家を頼った放蕩の天才詩人より、その父親に同情している。氏自身、朔太郎のそのような生き方を反面教師として弁護士を生業としたことを告白している。
▼これがホリエモンの批判するバランスをとる態度かどうかの判断は留保する。しかし氏の朔太郎の作品の評価には、氏の人間性が色濃く反映されていると思う。通常我々が詩人の言語感覚に天才をみる「月に吠える」所収の「愛憐」「恋に恋する人」の溢れるリリシズムを放埓と断じ、「青猫」以後の孤独感、寂寥感の表出に本領を見いだす。
▼日本の近代詩に輝かしい足跡を残した萩原朔太郎を、これまで僕も近づきがたい天才と感じていた。今回彼が異常なほどの性欲に悩み、罪の意識に苦しんでいたこと、詩論や雑文にステレオタイプな物の味方が散見されること、群馬は前橋の出身である彼は、生粋の都会人でも極端な田舎者でもない、ある意味中途半端な地方不自由人だったことを知り、親近感をもった。つまり詩人は僕に随分似ているのだ。ただ僕の言葉に詩人の輝きはない。

火曜はポークソテーにポテトサラダ。

水曜は豚とズッキーニの炒め物にインゲンサラダ。今日はヨガカレーで写真なし。