無責任王国

薬害エイズ訴訟で国民的な人気を博した菅総理が、今や国民的な不人気に沈んでいる。元さきがけ代表幹事の田中秀征氏によれば、特に若者の間に圧倒的な不支持が広がっているそうだ。田中氏が教壇に立って学生の反応から感じるのは、個々の政策や外交の対応のまずさに対する不満ではなく、人間性に対する本能的な嫌悪感だという。自分の上司がこんな人ならとてもやってられないみたいな。
▼確かに菅氏のセリフは逃げ口上が多い。平たく言えばいいわけである。演説の調子が、人心に訴えかけるのではなくおもねる感じがする。時に挑発的、扇情的でありながら、追加、修正主義的。ようするに首尾一貫していない。定見がない。信念が感じられない。若年層がウンザリするのも無理はない。なぜならこれはまさに彼らの周りにいる大人たちに共通する特徴だからだ。
▼日本はいつからこんな国になってしまったのだろう。卑近なところで僕の会社や取引先など身の回りの人たちから、一国の指導的立場にいる人たちまで、とにかくほとんど全ての人が誰も責任をとろうとしないように見える。
▼例えば僕は建設関係の仕事をしているが、各現場には監督がいて、それら複数の現場を統括する課長がいる。現場で事故があれば一義的には現場代理人の責任である。では課長に責任はないのか。よそもそうかもしれないが、うちの会社ではない。なぜなら重大事故発生現場を複数統括する課長が、その年の安全大会で表彰されるのだから。何かあれば現場の責任、手柄は上が独占するシステムだ。
▼次に大手ゼネコン。大手の仕事は「お金は半分手間は倍」で心の底からやりたくないが、煩瑣な制約が、建設現場から事故をなくすという強い使命感からくるものであればつきあわないでもない。しかしその実態は、何かあったときのアリバイ、自分たちに責任がかからないための逃げの安全なのだ。やることなすこと通り一遍、形だけで実際に則していないのでやりにくいことこの上ない。彼らは二言目には「何かあった時にやられるから」と言うが、「何かあったら俺が責任をとる」という監督は見たことがない。
▼大きな現場ではたいてい建築、電気、設備は分離発注である。つまりゼネコンと電気業者、設備業者は直接の請負関係にはない。しかし普通はゼネコンが幹事会社として現場を統括し、電気、設備業者はその管理下に入る。
▼具体的には、休憩所、便所、足場など現場全体で使用する共通仮設をゼネコンが設置し、全体朝礼、会議などを主催する。おそらくは使用料、設置料、管理費という名目で、請負金の何%という高額な歩金が徴収されているはずだ。ヤクザのショバ代と同じである。
▼だが現場で設備業者または電気業者が事故を起こしても、ゼネコンが責任をとることはない。それが仮設足場の足らずが原因であっても、ゼネコンがやることは足場を増設し、かかった費用に上乗せして設備業者に請求するのが関の山だ。ヤクザよりえげつない。
▼彼らは本当に事を知らない。何か言えば誰でも何でも言うことを聞くと思っている。自分たちがエライと勘違いしている。が、それは仮囲いの中だけの話で、一歩外に出て一般社会で通用するような人物はまずいない。だから彼らも外に出ようとしない。業者の金で夜の街に繰り出す以外はほとんど現場事務所にいる。ホントに「仮囲いの中の王様」だ。
▼業者に仕事を発注する側の企業にも、普通は施設管理課、管財課などの部署があり、普段は保有資産の管理、営繕を、場合によっては大型の投資案件を担当する職員がいる。彼らもゼネコンの職員に比べれば見劣りするかもしれないが、なんと言っても担当者である。それなりの知識と経験を有しており、全体像を把握する必要があるのはもちろん、何かあった時に全てを業者のせいにして知らぬ存ぜぬですむはずがない。
▼ところがこれまた何かあると業者に全責任を押しつける人がいる。上に自分が叱られる前に業者を呼びつけて怒るみたいな。「オレに迷惑かけやがって」的な部分だけは本気で怒っていて、事の本質的なところを心配しているわけでは全然ない。
▼こういう人たちを見ていると、怒りを通り越して呆れるというか可哀相になってくる。何が起きても一切責任をとらなくてすむんだったら、それはもう仕事と呼べるのだろうか。彼らにとって仕事とは保身なのだ。組織防衛と自己保身。
▼かくして最も弱い立場にある者が、何の保障もなく、あらゆる責任を一身に負うことになる。そういえば「自分の身は自分で守れ」もゼネコンの監督の口癖だったな。そしてそれに似た「自己責任」も何代か前の総理大臣が言ってたような。その四代後の首相は税金を徴収する側の長でありながら自ら率先して脱税し、野党時代に彼のことを「平成の脱税王」と呼んだ男が今平気で大臣の椅子に座っている…もうこれ以上はよそう。世も末だ。