悲しい歌、聴きたくないよ

ニュージーランド地震の続報がラジオからとめどなく流れてくる。ストップザニュース。運転しながら思わず耳を塞ぎたくなる。前途洋々たる多くの若者たちの未来を一瞬にして無にしてしまう自然の猛威を前に、ただただ呆然とするのみだ。
▼17年前の1月17日も六千人近くの命が一瞬にして奪われた。いち早く現地に馳せ参じた僕の友人は、後になってそれを「百人以上死んだ」と言った。現場の悲惨な状況を目の当たりにしている彼にとって、「百人」というのは「大勢の」という意味で、他に意味はない。
▼当時も今も、新聞やテレビは、毎日増えていく死亡者の数を正確にカウントすることを仕事にしているようだが、数字そのものに意味なんかない。数字は、ひとりひとりの人の命を六千分の一に薄めてしまう。
▼世の中には、当事者と報道する人とニュースを享受する人の三種類しかいない。ニュースが事件や事故をつまびらかにすればするほど、我々は現場から遠ざかる。だったらニュースは見世物と同じじゃないか?
▼日々の生活に汲々としている自分が情けない。東に病める者がいれば看病し、西に悩める者がいれば励ます。そういう人になりたかった。誰か立て板に水の如く流れるニュースを止めてくれ。神様、せめて第四の道を模索する自由を与えたまえ。