好縁社会の適性とは

昨夜からかなりまとまった雨が降った。土砂降りというのではないが、雨音が聞こえるほどの雨である。ここのところ木曜代休が定着してきたが、こんな雨の日はうちでブログ三昧だ。ネットで世界の天気を見るとパリ、ロンドン、ニューヨークいずれも雨が降っている。先進国は軒並み雨マークだね。日経の経済予測かと思ったよ。
▼最近ウチゴハンの写真の大きさがまちまちなことにお気づきの方もいるかもしれない。実は妻が端末をiphone4に変えて、使い方にイマイチ慣れないので不安定なのだ。iphoneにいろんなアプリがあることはみなさんご存知だろうが、ラインというアプリが素晴らしい。詳しいことはわからないが、登録すると同じラインのユーザーが画面にザッと出てきて、すぐに知り合いを何人か見つけることができたという。言ってみればFacebookの親戚みたいなもんだ。同時にFacebookも始めた妻は、地元の古い友人知人とつながって嬉々としている。
▼ネットが普及して自己発信の場が増えたことは確かだ。90年代くらいまでは企業も個人もこぞってHPを開設したが、それなりにパソコンの知識も技術もいる作業なので爆発的な広がりにはならなかった。それぞれのポータルサイトから簡易HPのフォーマットを得ることで個人が簡単にブログを書けるようになったのは今世紀になってからではないだろうか。そして端末としてスマホが普及した近年、リアルタイムのつぶやきであるツイッターが大流行している。iphone4のラインやFacebookはこの流れの中でどういう位置を占めるのだろう。
▼Facebookに代表されるSNSの特徴は、ひとことで言えば実名性である。そういう使い方をしている人もいるかもしれないが、本来は不特定多数に発信するものでも出会いを求める場でもない。コミュニケーションにはいろんな形があり、そのバリエーションは多いほど便利だ。親しき仲にも礼儀ありで、例えばかなりの親友でも毎日電話をかけあうのは重いだろう。好きな時間に見ることができるメールの方がお互いの負担にならないかもしれないが、返事がないとへこむし返信するのが面倒な時もある。SNSの素晴らしい点は、知人間のコミュニケーションツールであるにもかかわらず、対個人のものではないことだ。そのような性格の媒体は今までなかったと思う。
▼少なくとも妻の使い方を見ているとFacebookは、まだネットが出たての頃堺屋太一氏が「地縁血縁社会から趣味嗜好を同じくする者同士が距離を超えて通じ合う好縁社会の到来」と評した世界に近いと思う。僕はネット社会に批判的だったが、それは個人の適性の問題だった。出会い系のツールとしては、ネットもテレクラも同じである。ネットに新しい出会いを求める人にFacebookは向いていない。なぜならFacebookは知人間のコミュニケーションツールだからだ。
▼SNSが既に親しい人同士の時間的空間的距離を消す便利な道具だとしたら、逆にたまたま時間的空間的距離が近くて毎日顔を合わせているだけのような人もすぐにわかってしまう。Facebookのウオールに、例えばママ友のようなウソのつきあいの人が入り込む余地はないのではないか。
▼さて、ツイッターの即時性にフェイスブックの実名性をかけると、見えてくるのは「ありのままの自分」である。リアルな自分を公開するのは結構勇気のいることだ。好縁社会の住人となるために欠かせない条件をひとつだけあげるとすれば、それは「リア充」だろう。匿名ブロガーの僕が、妻を見ていてそう思う。

昨日のウチゴハンは生姜焼きにサラスパ。食べながら子どもたちとも話したのだが、妻の生姜焼きは絶品である。僕は好縁社会の適性はないが、良縁に恵まれたことは確かなようだ。