生活保護問題の本質

相変わらずの曇り空である。日曜日の休みも四週目。週に一度、みんなが休んでいる時に休むという当たり前のことが許されるのもここ二か月ほどだけなので、心ゆくまで堪能したいと思う。何もしなくていい。新聞の日曜版に隅々まで目を通し、それからテレビの日曜番組を見る。この順番でないと、日曜の朝の帯はほぼ子供向け番組なのだ。テレビに飽きたら時々本を読む。時々でいい。あまり根を詰める必要もない。
▼日曜午前の報道バラエティ。今週の話題は高嶋離婚訴訟50%、河本オカン生活保護問題30%、大飯原発再稼働問題と消費税をめぐるドジョウと小沢の綱引きがそれぞれ10%ずつといったところか。報道色が強いとこの割合が逆になる。各政党の代表を招いたNHKの「日曜討論」には、もちろん芸能人の離婚裁判の話なんかでない。
▼そうしてみるとやはり政治家の片山さつきが芸人の実名をあげて追及するのはおかしなことだし、あるいは片山さつきも政治家としては半人前で、半分はタレントのようなものだともいえるかもしれない。昨日のエントリーで高嶋ドロ沼裁判を取り上げたので、もうひとつの旬ネタである売れっ子芸人母子の生活保護受給問題を取り上げないわけにはいかないだろう。
▼この問題で僕が思うのは次のようなことである。生活保護受給にいたる経緯を聞かれてキンコン梶原は、母親が弁当屋で働いていて、さらに祖母の介護と自身のケガのために働くことができなくなり、復帰しようとした時には弁当屋もつぶれていたと話していた。梶原本人も「特に後ろめたい気持ちはない」と言っていたとおり、仮にマンションの件がなければ十分受給の対象になるケースだと思う。河本の場合も事情はほぼ同じだろう。ホームレス中学生麒麟田村ではないが、ものすごい貧乏をしてきて、芸人として成功した現在、頼ってくる親以外の親戚もいるかもしれない。
▼僕が言いたいのは生活保護という制度への親和性のことである。現在の経済状況に関わらず、あるいは実際にそれが保護対象にあたる状態だったかどうかは別にして、彼らが過去の一時期、生活保護制度が極めて身近な環境にあったことはまちがいない。そしてそれは成功して高額な年収を得るようになった今も基本的には同じである。それは僕が過去に派遣をしていた時期の年収が相当に低く、現在の生活もひどく苦しくて、将来かなりの困窮が予想されるものの、生涯を通じて一度たりとも生活保護など念頭に上らないのと対である。
▼世の中には二種類の人間しかいない。生活保護に親和性のある人とそうでない人だ。僕や片山先生のように親和性のない人は、たとえそれが正論であったとしても、親和性のある人に対して何も言えない。倫理的にではなく、何を言っても的を得ていない感じになってしまうのだ。世の中の不幸は、生活保護のような制度を、その制度に全く関係のない人たちが忖度していることにある。
▼例えば、「本当に必要としている人がいるのにこんな不正はゆるせない」とか「見過ごすと暴力団貧困ビジネスなど他の不正追及との公平性を欠く」との意見がよく聞かれる。しかし「生活保護が本当に必要な人」により近いのは、まちがいなく必要な人のことを心配するまっとうな市民より不正受給しようとする人たちの方だろう。同様に搾取される受給者により近いところにいるのは、不正と戦う市民弁護士なんかより、暴力団の方である。こう言ってよければ、親和性のあるグループにとっての暴力団は、親和性のない市民にとっての代書屋や弁護士のようなものだ。
▼もっと言えば河本や梶原を庇護する吉本興業や、あるいは大阪という地域も、日本全体でみれば比較的生活保護に対する親和性が強いと言えるかもしれない。生活保護受給者、特に若年層のそれが空前のペースで増え続けていることの本当の問題は、不景気や財政負担の問題などではなく、この生活保護心理的に抵抗感のない人々が増えていることにある。片山先生のやっていることは、結局のところ既得権を守ろうとする階級闘争だ。だから成功した貧乏人に対する妬みや嫉みの感情を煽るやり方になる。
▼エアロビから帰ってきた妻が昼食に昨日のカレーの残りをパスタに絡めてインディアンを作ってくれた。

ちなみに朝食はこのカレーが食パンにのったものだった。カレーでなくても同じこと。すなわち前の日の夜の残りが朝食と昼の弁当に回るのだ。
▼それから二人でいそいそと買い物に出かける。妻が「今日は疲れている」というので、スーパーで割引のお寿司と、目に止まった洋菓子店でデザートも買う。


対立からは何も生まれない。