日本人の忘れ物

天気予報では今日が最後の猛暑日ならぬ猛残暑日らしい。確かに暑いが、どこをどう切りとっても秋の気配が濃密に溢れ出るのを覆い隠しようもない。涼やかな木陰にはツクツクホーシが鳴き、見上げれば刷毛を引いたような雲が薄く広がる。住宅街の一画にわずかに残った田んぼの稲は、いつのまにか穂をつけている。ああサンマ食べたい。
▼学生の頃の愛読書に宮本常一の「忘れられた日本人」がある。最近その本から出てきたような人を見かけてうれしくなった。集合住宅四階の僕のうちの窓から見える自販機に、17時ちょっと過ぎにスクーターで立寄るおじさんがいる。フルフェイスのヘルメットで顔はよく見えないが、服の汚れ具合からして建設労働者だろう。
▼おじさんは自販機でジョージアのロング缶を2本買っていくのが慣わしだ。毎回ジョージアのロング缶で、必ず2本買う。その場では飲まない。2本とも足元のバッグに入れて走り去る。僕がサボってフライング気味に直帰した時にしか見ることができないから、仕事場はこの近くの現場だろう。夏場に自販機で買った缶コーヒーを飲まずに走り去るのだから、住まいもこの近くかもしれない。
▼「すぐ飲まないとヌルくなるよ」という心配なら、余計なお世話には違いないがまだ許せる。だが「もう少し先のスーパーに行けば1本分のお金で1リットル入りのパックのコーヒー牛乳が買えるのに」という考え方はよくない。それはおじさんが欲している量を超えている。現代人の特徴は、コスパを気にして自分の本当の欲望すらわからなくなっていることだ。
▼彼がこの自販機で、ジョージアの缶コーヒーを買うのを楽しみにしている気持ちはよくわかる。その気持ちだけで十分だ。それは僕がもうはるか中学生の昔に忘れてしまったものだ。「同じ値段でもっとたくさん買える」とか「その場で飲まないなら自販機じゃなくてもいいじゃん」という考え方をする人は、このおじさんの悦びは一生味わえない。自分の行動パターンを決めてかかる人が感じる御利益には一生縁がない。
▼缶コーヒーは今、ジョージアのようなロング缶より少量のショート缶が主流だ。それはコーラその他の缶ジュースが350mlサイズに大型化したのと同じ流れだ。僕が中学生の頃まではロング缶しかなかった。全部同じ250ml缶だった。それが日本人の渇きを満たす適量だと、500mlのペットボトルでも足りない僕はそう信じている。
▼美味しすぎてつい食べ過ぎてしまう妻の手料理はまた別の話だ。

昨日は豚の生姜焼にアボガドディップ。

今日は水曜恒例のビーンズカレー。水曜にヨガに行く妻が作り置きしていくカレーなので、ヨガカレーと呼ぶことにする。
▼そんなわけで明日明後日と連休をとって、忘れ物を探しに一人キャンプしてきます。家出とも野宿ともとれる行為ですが、止めないでください。