恋とは何でしょう?

今日はこの冬一番の寒さとなった。ガードマンが毎朝撒く水が凍って、朝礼広場に集まった作業員が足を滑らせていたな。
▼今日は幸運にも2時間ほどで早上がりすることができた。お昼を回るともう休んだ気がしないが、午前中のうちに帰ればまだ早引の価値がある。手帳を見ると、前回休んだのは11月4日。いつのまにかひと月以上たっている。
▼休みがないと体力的にというより精神的に参ってしまうが、今回の休みから休みのクールはそうでもなかった。やはり先日の上京がいい気分転換になったのだろう。場末のスナックでオバケのようなホステスがつくる焼酎の水割りほどマズイ酒はないが、古いつきあいのマスターと傾けるシングルモルトの味は格別だね。ホントにもう30年来のつきあいだ。
▼10時過ぎに帰ると妻はジム、下の子は一年生大会、テスト期間中で部活が休みの長男だけがマイペースに一人暮らししている。これが下の子なら狂喜乱舞して「どっか連れてって」とせがむところだが、長男は僕が帰ろうが帰るまいがお構いなしだ。「笑っていいとも増刊号」を見ながらいつまでも歯を磨いている。
▼彼は「関口宏東京フレンドパーク」みたいに芸能人がスタジオの中でセットのゲームをするような究極の閉じた中身のない番組が好みである。僕なら絶対見ない番組だ。彼もまた休みはひと月ぶりくらいのはずだが、いっこうに出て行こうとしない。僕ならたまの休みを無為に過ごすなんてガマンならないが、彼には全く慌てたところがない。それは彼が「充実した時間を過ごさなきゃ」とか「ためになる番組を見なきゃ」といった脅迫観念から自由だからだ。一人でいることがさみしいという感覚もないようだ。自足しているとはこういうことだろう。
▼品行方正という言葉がある。品性下劣という言葉もある。行動を正すことはできるが、生まれ持った人間性を変えることはできない。形式は内容に勝る。要は器の大きさである。やってることの中身なんかどうだっていい。いいともを見ようがNスぺを見ようが、中身は趣味嗜好の違いにすぎない。無理して相手の好み合わせようとする男と、自分のしたいことをして恬として恥じない男。僕が女性ならどっちを好きになるだろう。僕が若いころフラれ続けた原因もおそらくはそのあたりにあるのかもしれない。
▼3時過ぎまでだらだらした挙句おっとり刀で出ていった長男に続いて、貴重な休日を有意義なものにしたい小心者の僕も映画を見に街に出た。

アッバス・キアロスタミ監督の「ライクサムワンインラブ」。DCでバイトする女子大生をめぐる、その娘を買った退職した老大学教授と、中卒で自動車修理工の恋人の三角関係を描いたドラマだ。
▼東京(かどうかははっきりしないが)の女子大生が、今も昔も実際にこの映画のヒロインのようなものなのかどうかはわからない。ただ恋がどういうものかはよくわかる。それはつかみどころのないもの、思い通りに行かない状態のことだ。不確かで、不安定で、逃げていくもの。僕は妻を愛しているが、それが恋かと問われれば違うような気もする。
▼セックスすら重要な問題ではないかもしれない。事実ヒロインの女子大生は風俗でバイトしている。貞操観念に重きを置いていないように見える。実際に今の若い女性がそういうものなのかどうかは別にして、映画の中のヒロインはそのように設定されている。老教授も既にそのような能力を喪失した年齢に設定されている。恋人の青年も、彼女と結婚したがっている。彼女の身体というよりは、心を求めているように見える。
▼成就してしまえば、それはもう恋ではないかもしれない。その意味では僕はあの頃確かに恋をしていたのだ。そういえば慶応の校門前で見かけた天下の慶応ガールもパッとしなかったな。当時はこんな小娘たちに振り回されていたのかと思うと不思議な気さえする。バブルの頃とは時代が変わり女子大生も地味になったのかもしれないが、何より僕自身が恋に夢中になる時期を過ぎたのだろう。
▼うちに戻ると一年生大会を終えた下の子がいる。今日は二打席フライを打ち上げた後交代させられたそうだ。この子が恋に落ちるのはまだ当分先の話だ。感情に起伏がない上の子は恋愛感情というものを一生もたないかもしれない。そういう人も稀にだがいる。大物だ。それでも僕は苦い恋の味を忘れることができない。

昨日今日と連続して鍋。寒い日には鍋に限るが絵柄が同じなので写真はなし。あまりに寒いので出ベソの妻も家でじっとしているらしい。これはその小鳥のエサ。