桜の宮

今日成人の日は、朝からこの時期にはめずらしい激しい雨になった。冬の雨は普通暖かくなるものだが、凍てつくような冷たい雨だ。まるでこれから日本の若者たちに待ち受ける困難な前途を象徴するような天気である。現在高2の長男も、あと三年もすれば新成人だ。
▼「二十歳のエチュード」を残して自殺した原口統三を持ちだすまでもなく、夭逝した天才は多い。だが半世紀近く生きた僕が今言えることは、二十歳なんて生きたうちに入らないってことだ。部活動の顧問の体罰を苦にして自殺した大阪市立桜宮高校の生徒は、人生のトバ口に立つことすらできなかったことになる。
▼同校では過去にバレー部でも顧問の体罰が問題になっている。その時にきちんと対応していればこんなことにはならなかったと言ってるうちに、当のバスケ部の顧問の体罰も通報された前歴があり、その時の対応が本人への聞き取り調査だけの杜撰なものだったと当時の校長や教育委員会が非難されている。
▼いつものマスコミ批判とは違った意味で、小出しに更新される情報やもっともらしい意見など日々報道されていることは、この事件のやるせなさを何ひとつ汲みとっていないと思う。我々の間で流通する事件の解説は、孤独のうちに自殺した生徒の周囲を虚しく回るだけで、その魂に触れることはけしてないだろう。
▼評論家は、身内をかばう教育現場特有の隠蔽体質に問題があるという。大阪の橋下市長は、当該顧問に18年異動がなかったことを重視し、人事の問題だという。スポーツが盛んな高校で、実績のある顧問の指導方法に口を挟めない雰囲気があったとの指摘もある。
▼確かにそういう側面もあるかもしれない。だが原因を究明し、課題を明らかにし、問題解決の方法を探る種類の言葉では、親や友人に助けを求めることさえできなかった子供を救うことはできないだろう。
▼具体的な事柄の細部にヒントは隠れている。自殺の前日の練習試合に負けてひどく叩かれた。その際に主将を続けるか2軍落ちかの選択を迫られた。その数日前には母親が顧問に直談判し、主将をおろしてもらって結構だと伝えている。両親の進めで体罰に悩んでいることを書いた顧問にあてた手紙を、友人に止められて結局出さなかった。生徒はバスケを通じて小学生の時に顧問と出会い、彼の指導を受けるために桜宮高校に進学した。
▼よくある光景だ。小学生の頃から町内会やクラブチームでスポーツを始める。休みのたびに応援に行くほど両親にも力が入っている。まだ義務教育の中学の時から、親子ともに有力校や評判の指導者の元で練習したいと希望する。バスケやバレーはもちろん野球やサッカーはなおさらだ。その象徴的ものが高校野球だが、運動部に所属している生徒もそうでない生徒も同じ環境に生きていることに変わりはなく、学校という世界から逃れることはできない。
体罰の是非については正直よくわからない。顧問の先生の情熱を疑うものでもない。過去には殴られて当たり前の時代もあった。その中で生徒が自殺したのは、あくまで個人的な心の問題なのかもしれない。今回の例でいえば、端的に言って自殺した生徒にとって一番大きな存在が、親でも友人でもなく顧問の先生だったということなのかもしれない。
▼ただ僕がこの事件に接して感じるのは、先ごろ話題になった津市いじめ自殺事件にあまりにも似ているということである。事件の内容や構造はともかく、とにかく報道から受ける印象が酷似している。それは起こった場所と犯人が違うだけの無差別銃乱射事件のように、似ているというよりは同種の事件だ。そして銃乱射事件が米社会に特有の事件であるように、これらの事件もまた日本社会に特有の事件なのである。
▼恐喝、暴行、リンチ…中学生の分際で犯罪行為の常習者であるチンピラの母親が、徳育モデル校のPTA会長に君臨し、父兄会の議論を先導する奇怪。暴力教師が実績ある指導者として野放しにされてなんの不思議もない。これが日本の教育現場の実体である。これらはひとり反動教師だけの責任ではない。教師と親と、敢えて言うなら子どもも含めた三位一体で戦後、地域ぐるみで形成されてきた日本の風土なのだ。
▼ここには自殺した子供たちを、死ぬことにしか逃げ場がないところにまで追いつめた何かがある。それは暴力教師や不良生徒といった誰かではなく、自殺した本人が絶望的な孤独感、無力感を持つに至った、日本社会に特有の、ある集団的な何かだと思う。


昨日はブリ照りにドイツパンのアボガドディップ。今日はブリの塩焼きに肉じゃが。切身はあるが、いくら探しても刺身がない。全く成人の日だってのに近所のスーパーは祝う気まるでないもんな。20歳にまで辿り着くって結構たいへんなことなんだぜ。
寒ブリや切身はあれど刺身なし