恐るべき大人たち

昨日から今日にかけて雨がざあざあ降った。幼い頃親しんだ絵描き歌でも、それは6月6日のことだから、やっぱり今年は10日ほど早いのだ。沿道にまだツツジが残り、アジサイは蕾のままだ。草花も季節に追いついてこない。
▼今日は雨で現場は中止。午前中消防検査の立ち会いを済ませ午後から妻とランチの後、映画「偽りなき者」を観に行く。

「光のほうへ」のトマス・ヴィンターベア監督作品ということでかなり期待していたが、予想に違わぬ力作だった。一言でいって、性的虐待の濡れ衣を着せられた男が町中の人間の迫害を受ける話だ。人という人全てに見てほしい傑作である。少々長くなるがネタバレにおつきあい願いたい。
▼離婚して幼稚園で働くルーカスは子供たちの人気者だ。誰にでも平等に優しく接する温厚なルーカスに、おとなしく空想がちな少女クララも淡い恋心を抱く。ルーカスにプレゼントを渡し、ジャレる男の子に便乗してキスをする。それに対してルーカスは、親友の娘クララに「プレゼントは他の男の子にあげなさい。それから唇へのキスはよくないよ」と優しく諭す。傷ついたクララが「私じゃない。キスなんてしてない」と否定する暗い表情が、これから起こる不穏な事態を予感させる。
▼その日母親の迎えが遅くなり園に残っていたクララは、園長先生に嘘をつく。ルーカスが嫌いだ。自分に「ピンと突き立った」性器を見せたと。その表現は、クララの思春期の兄が、ふざけてクララにポルノ画像を見せた時に発した言葉だ。真に受けた園長は知り合いの児童心理専門家か何かにクララへの聞き取りを依頼する。「そんなこと言ってない」というクララに彼は「じゃあ園長先生か君が嘘をついたことになる」と追いつめる。
▼その後の展開は誰もが予測できるものだ。「自分の娘がそんなことされたとしたら?」幼児への性的いたずらという事の性質上、親友であるテオも冷静ではいられない。狩猟仲間も職場の同僚も恋人もスーパーの店員も共同体の成員全てが彼に疑いの目を向ける。もうクララが何を言っても「よっぽど酷いめにあったのね」としか受け取らないし、クララも「よく覚えてないの」としか言わなくなる。最初から最後まで一瞬たりともルーカスを疑わないのは、離婚以来離れて暮らす一人息子のマルクスだけだが、彼も父親と同じ白い目で見られる。
▼「バカげてる!」「正気か!」ルーカスとマルクスは何度この言葉を叫ぶだろう。警察から釈放されたその日にガラスを割られ、愛犬まで殺されるのを見るにつけ、カフカ的不条理がけして絵空事ではなく、誰にでも起こりうることを思い知らされ戦慄を覚える。確かにきっかけは他愛ない子供の嘘かもしれない。だがそれを大きく育てたのは共同体の成員たる大人たちだ。イブのミサで親友テオの誤解が解けるのを機に再び共同体に復帰したかにみえるルーカスだが、翌年息子の成人を祝う狩猟の森で、彼は何物かに狙われる。
▼僕は一時期塾の講師をしていたことがある。ルーカスほどできた人間じゃない僕は、生徒との間に性的事件に発展しかねない出来事が二度ほどあった。ひとつは講師仲間と飲んだ勢いでテレクラに寄った際、卒業生からのコールをとってしまったこと。彼女は翌日教室に遊びにきた。あれは確かめにきたのだ。彼女は僕だと確信していた。もうひとつは僕のことを慕ってくれていた女生徒が、親と喧嘩でもしたのか、授業のない夏のある日に教室にやってくるなり、泣きながら僕に抱きついたのだ。不覚にも僕は勃起してしまった。彼女はそのことに気づいたはずだ。何があったのか話すように椅子を勧める僕に「なんでもない」と言うと、彼女はそそくさと帰ってしまった。ほどなく彼女は塾をやめた。
▼いずれも僕に犯意はない。しかし完全に冤罪であるルーカスに比べれば、塾の先生としては致命的な、殺人とはいえないまでも過失致死であるような、クビになっても仕方ないケースではある。だが彼女たちは事を公にはしなかった。きっと友人同士の間では「キモチワルイ」などと話していたかもしれない。しかし噂として広がることはなかった。自分もタダではすまないと考えたのかもしれない。結局父兄の知るところにはならなかったようだ。
▼その件では僕はクビにならなかった。僕が塾を辞めることになったのは、それから二年後、言うことをきかない僕に腹をたてた塾長が他の先生に生徒への聞き取り調査を命じ、その報告を受け「生徒が気持ち悪いと言ってる。わかる。オレもオマエが気持ち悪い」と言って、自ら辞めることを迫ったからである。後できいたところによると、伝えられた「今度の先生は変わってる」という子供の言葉を塾長に「変態」と曲解されたということだった。本当に怖いのはけして子供ではない。大人社会である。


ランチは新鮮な刺身の海鮮丼にボリューム満点の二枚のせかきあげ丼。大喜びの妻はさっそくSNSにアップしていた。僕がもし無実の罪を着せられたとしたら、絶対に信じてくれるのは二人の子供たちに両親、そして妻は、たぶん大丈夫、だと思う…