ツキイチ!

日曜の朝は、個性的なお宅を紹介する番組「住人十色」から始まる。それから「僕らの時代」→「ジューイチ」→「サンジャポ」→「うちくる?」と流れるのが僕の好みだ。「シューイチ」までに子供たちは部活に、「サンジャポ」までには妻がジムに出かけてひとりになる。だが仕事なら最初の「住人」しか見ることができないはずだ。すると僕は今日休みなのか?
▼ザッピングの途中でEテレの「日曜美術館」にひっかかった。31才の若さで夭逝した画家、石田徹也の特集である。機関車や廃車と一体化した人物画はどれも本人そっくりで、自画像といってしまっていいと思う。彼の作品のモチーフからしても、踏切事故は自殺かもしれない。
▼的外れかもしれないが、僕は石田の絵を見るとなぜか会田誠が頭に浮かぶ。生前不遇だった石田に比べ、会田は今最もポピュラーな現代画家である。女子高生をモチーフにした屏風絵といえばピンとくる人も多いのではないだろうか。
▼彼らの絵は難解なものではない。何が描かれているか一目瞭然だ。石田自身と思われる青年と漫画の中に出てくるような女子高生。暗い表情の青年の身体が鉄道模型と一体化して朽ちてゆき、屈託のない女子高生の身体が花びらやドットになって壊れていく。手法に意識的な会田と違い、石田は無意識かもしれないが、いずれにしろ無機質なものには違いない。
▼会田は僕と同世代。ロスジェネの石田のひとつ上の世代にあたる。だが世代にかかわらず現代美術、なかんずく日本の現代画家の特徴をひとつだけあげるとすれば、それは生気のなさだと僕は思う。彼らの作品にはピカソマチスにあるダイナミズムが欠けている。それは現代社会の抱える閉塞感と無関係ではないが、僕にはもっと大きな理由があると思う。
▼端的に言ってそれは、新しい表現手法を提示できない彼らの芸術家としての後ろめたさからくるものではないだろうか。結局のところ表現者は、全く新しい表現方法を模索するか、既存の手法を使って閉塞的な現状について自己言及するしかない。それは最高にうまくいって会田誠であり、生真面目な石田の場合、自殺にいきつくほかはなかった。
▼現代美術はミニマリズムの隘路から抜け出していないように見える。印象派以前のナイーブさには戻れないにしろ、優れた作品の生命は批評的な精神だけではないはずだ。創造的行為には、批判を恐れないある種の大胆さが必要である。時に人を困惑させる愚かさでありカッコワルサであり図太さであり猥雑さだ。しかしこれらの属性こそ人が生命力と呼ぶものの特徴なのだ。
▼知識に飢えていた若い頃と違って、今の僕にはスマートな作品よりパワフルな作品の方が訴えかけてくる。これは持論だが、自己言及は芸術家の魂から最も遠いところにある。カッコばかりつけて青春を棒に振った僕には、スティ―ブ・ジョブス氏の「愚かであれ!」という言葉の意味が痛いほどわかるのだ。
▼さて、秋らしい快晴の空に誘われて午後から妻とドライブに出かけたが、ひょんなことから大ゲンカになりランチもとらずに途中で引き返してしまった。ツキイチの貴重な休日が台無しだ。まあ棒に振ることが多い人生だから慣れてるけど。機嫌の直った妻が作った夕食は秋らしくキノコのクリームパスタとジャガバター。

長男はお食事会。次男は筋トレ設備の整った野球部員のお宅に自主トレに行った。そして今日は父の76回目の誕生日でもある。