リボーンの騎士

台風が過ぎて一日置いて、またけっこうな雨が降った。この先もずっとぐずついた天気が続くらしい。エルニーニョ現象おそるべし。地域差もあるだろうが、少なくとも僕の住んでいる地域は今年は冷夏でまちがいない。
▼さて、干支でいえば四順目の誕生日を迎えたわけだが、日々の雑事に追われ、ゆっくり感慨にひたるヒマもない。寄る年波には勝てず、あちこち痛む。特に膝や踵など足が痛くて、足場の上り下りも一苦労だ。一日が終われば疲れ切ってすぐに眠ってしまう。肉体の衰えは隠しようもない。次はもう還暦だもんね。
▼不思議なもので、振り返るとだいたい12年ごとに大きな転機があったような気がする。最初は小学校から中学校に上がる時。いじめられっ子だった僕は柔道部に入り、いじめを克服した。24の年には人生最大の失恋を経験した。失恋とは大袈裟でなく、一度死んで別人として生き直すことに他ならない。そして36の時、僕は都落ちして以来10年ぶりに地元を離れることになる。さて、今度はとんな転機が僕を待っているだろう。
▼日曜の「ワンダフルライフ」は演出家の野田秀樹。ホストのうちリリー・フランキーはいつも通りだが、山岸舞彩のテンションが高すぎると思ったのは僕だけだろうか。スポーツ畑の彼女は、芸術系のゲストにはつい盲目的にリスペクトしてしまうのかもしれない。その点僕は、自分で言うのもなんだがホントにオールラウンダーだと思うよ。
▼高校で落ちこぼれた僕は、進路を決める三年の三者面談の時まで日芸で芝居をやるつもりでいた。NHKの芸術劇場か何かで放映された夢の遊民社の「野獣降臨」か「小指の想い出」あたりを見たのがきっかけのひとつであることはまちがいない。野田が小学校の時、同級生の映画監督金子修とお芝居を作るエピソードで、山岸は「え〜、小学生でですかぁ」と瞳をうるうるさせていたが、僕もそんな子供だった。
三者面談で僕が「芝居をやりたい」と言うと、担任は「オマエが役者ねえ」と言うので、「やりたいのは演出です。作る方」と言うと、担任はまた「だって自分でやってみなきゃわからんだろ」と言った。そういえば野田にしろ渡辺えり子にしろ串田和美にしろ、みな劇団の主宰兼演出家兼主演であり、小学生の僕もそうだった。当時の僕はそれがエースで4番の仕事だと思っていたが、この番組を見て考えが変わった。
▼番組で野田は徹底的に「聞く耳を持つ人」として紹介されていた。多摩美のワークショップの学生たちも、野田MAPのイギリスの俳優や翻訳助手も、みな一様に「いっしょに作っている感じがする」と口をそろえる。一般に独断的と思われがちだが、自分の考えを持ち、行動力のある人ほど他人の意見に耳を傾けるものだ。逆に人の話を聞かない人とは、外の世界より自分のことにしか興味のないつまらない人間が多い。
▼野田は早口で、芝居の発声のせいか声が掠れ、最初は何を言ってるかよくわからなかった。「観客に通る声」という芝居に不可欠な資質に決定的に欠けているように思えた。全体的にそわそわと落ち着きがなく、王さんを小突いたエピソードに象徴的なように、言動が軽いと感じた。僕は野田演劇の特徴のひとつである「言葉遊び」にも否定的で、海外にはもっていけないものだと思っていた。
▼自分を重々しく見せることが何の意味もないように、僕が野田秀樹について感じていたこれらのことは些末なことにすぎない。本当に大切なことはもっと別にある。僕は自分が上京してやりたいと思っていた芝居を、なぜやらなかったのかずっと考えてきたが、この番組を見てその理由がわかったような気がする。僕に欠けていたのは、野田とその親友の中村勘三郎に特徴的な腰の軽さのようなものだろうか。自分が面白いと思うものに素直に飛びつき、同好の士と時を忘れて語り合うような。
▼それにしてもどうして、こんなちっぽけなプライドで塗り固めたような下らない人間ができあがってしまったのだろう。両親共に特に変わった人というわけでもないのに、これも何かの隔世遺伝のようなものなのだろうか。なんにしろ、自分がつきあいたくないと思うような人間なら、それはもう生まれ変わるしかないだろう。
▼仕事に疲れた今日は気分転換に映画鑑賞。「アデル、ブルーは熱い色」原題は「アデルの人生」である。

レズビアンの映画と言われているが、テーマは主人公アデルの自分を殺す生き方だと思う。ノーマルだろうがゲイだろうが、失恋した恋人に依存する人は、どんなに若く美しくても魅力のない人間になってしまう。昨年のカンヌパルム・ドール、三時間の大作だが、正直なところ僕はずっと彼女にフラれた頃の自分を見せられているような気がした。あの頃の自分をそんな風に見れるのだから、僕も生まれ変わったと言っていいかもしれない。