夫婦という単位

今日で5月も終わり。昨夕あたりから少し風が出てきた。風が通るうちの中は過ごしやすい。長期予報は6月は空梅雨、7月は長雨となっている。この暑さにいったん慣れてしまえば、しばらくは小康状態だ。夏本番はまだ先のはず。
▼下の子の風邪を妻が台湾旅行中に発症し、戻ってきて僕にうつした。熱はないが、痰がからみ喉がおかしい。症状が下の子や妻と同じである。明らかに下の子由来の風邪だ。昨晩は薬を飲んで寝て、今日も朝から寝たり起きたりである。下の子は金曜から三日連続の公式戦で4時半に起きて弁当をつくる妻はつらそうだ。上の子は相変わらず朝から晩まで遊び呆けている。
▼台湾から帰って瞬く間に一週間が過ぎた。どこかへ行って帰ってくると、日常生活への入り方が難しい。この間首都圏で二回大きな地震があり、鹿児島の離島で火山が爆発した。昨日はかなり大きな地震だったようだが、誰かが亡くなったり建物が倒壊したというようなこともきかない。神奈川で震度5強となっていたが、弟は大丈夫だろうか。
▼ヨガから帰ってきた妻と近所のショッピングモールへ。ちょうど昼時だったので着くなりフードコートに直行する。物凄い人出だ。背中を押されるようにカツカレーの大盛をがっつり食べる。その後いつものブックカフェに回るがなかなか席があかない。土日がメインの仕事なので日曜にここを訪れることはめったにないが、普通の人は休みの日に買物にくるものなんだな。曜日感覚も金銭感覚も狂っている。
▼ようやく座ったものの、やはり本調子でないのか、ついウトウトしてしまう。台湾絡みの新刊「流」と、今朝の新聞書評に載っていた村上春樹訳のノルウェー小説「ノベル11ブック18」を買う。妻も「眠い」と言うので早々に帰って昼寝することにする。外は随分蒸し暑い。帰ってクーラーを入れる。
▼何か大切なことを忘れているような気がして、ずっと引っ掛かっているのだが、それがなんだか思い出せなくて気持ち悪い。カズオイシグロの「忘れられた巨人」を読み始めたが、なかなか進まない。舞台は空想上の世界のようでもあり、中世のイギリスのようでもある。主人公夫婦の暮らす集落の人間は蟻のような穴を掘って住んでいるが、住人はそこで生起したことを端から忘れていってしまう。
カズオイシグロは、一貫して人間存在そのものを描いてきた(まだ二作しか読んでないけど)。「日の名残り」では、生涯を通じ忍耐をもって自分の職務に忠実であった執事の人生を、本人によって悔恨と共に直接的に振り返らせている。「わたしを離さないで」も、臓器移植や臓器移植目的のクローン人間がテーマというより、臓器提供者としての運命を次第に受け入れていくクローンの生涯を通して、比喩的に我々の人生を描いているといえる。
▼渡台前あたりから、年下の友人からの電話が多くなり、戻ってきてからは毎日、それも一日何度もかかってくる。共通の友人の様子がおかしいので心配しているのだ。ていうか、彼から相談を受けているらしいのだが、一人で抱えるには重すぎて、僕に話すことで荷を下ろしているという。当の本人は海外被災地のボランティアに行くはずが、精神状態が不安定で取りやめたらしい。
▼彼は木曜の晩に車で片道三時間くらいかけて相談にのりにいき、今日も電車で片道三時間かけて向かった。新幹線で二時間くらいの僕もかけつけた方がいいのかどうか、昨日から迷っていたが結局妻に「もったいない。どうせ行くなら私を連れていくのが先でしょ」と言われ断念。台湾に行ったばかりだし、確かにそうかもしれない。けど、こんな時にかけつけなかったら、たぶんもう会う機会なんてないと思う。
▼人と人との絆ってなんだろう。たまたま仕事でこちらに立ち寄った時以来、彼とはもう三年くらい会っていない。その時も、結局プライベートでは話ができなかった。それ以前に会った時のことはもう忘れた。そんな風だから、この間電話とメールで一度ずつやりとりしたが、彼の方は、もう一人の友人に見せるようには僕に自分を晒そうとはしなかった。
▼人はなぜ、会いたくもない人と会い、やりたくもないことをやりながら日々を過ごさねばならないのだろう。一番大切な人との生活のため?僕の場合それは妻だ。やがては子供も巣立ってゆく。友人と疎遠になっても、この人と生きていくと決めたのだ。そのことが、カズオイシグロの小説に描かれる登場人物の人生に似ていないことを願う。そして年下の友人の変調が、まさに自由に生きているように見えた彼の最後の叫びでないことを祈る。「わたしを離さないで」の主人公のひとり、クローン寄宿舎の問題児の最後の癇癪でないことを。
▼帰国後月、火、水のウチゴハン



木曜ヨガカレーを挟んで金曜はポークソテー

土曜スシローを挟んで今日はパスタ。

日が暮れても蒸し暑くなる一方だ。
▼夕食後、会ってきた友人の報告を受けながら、Nスぺの戦後70年特集「バブルと失われた20年」を上の空で見る。感想は二つ。バブルのトリガーは結局のところ、米国の利下げ要求を日本政府が断れなかったことにあるというのがひとつ。二つ目は、僕はこれまでいい意味でバブルに関係ない人間であることを自認していたが、今回悪い意味で自分がバブルに縁がない人間であることを思い知った。経済活動にはある程度リスクが伴う。世の中にはリスクをとる勇気がある人とない人の二種類しかいない。経済活動を主体的に行えるのは前者だけであり、僕は後者だということだ。ますます後悔で彩られた執事の人生に似てきたな。
それでもまた明日から働くしかないのか。