或る男の一生

ここ数日グズグズの天気だったが、ようやく秋晴れが戻ってきた。日曜はあいにくの仕事。休みも三週で途切れてしまった。とにかく早くまとまった休みがほしい。気分転換したい。
▼先日担当事業所を歩いていると、不意になんともいえない芳香に襲われて思わず立ち止まって深呼吸してしまった。キョロキョロと匂いの源を探す。緑の葉にパッと橙を散らしたような木。金木犀だ。鼻づまりの僕でもわかる素晴らしい香りである。しばらく楽しめそうだ。
▼日曜は、免許を持っていない作業員を車に乗せて移動することになった。真面目にコツコツ働く人だが、還暦を過ぎてだいぶ衰えが目立つようになった。見た目にも痩せて体力が落ちたように思う。その彼が僕の横で誰に言うともなくつぶやく。「金木犀、別名一里草。一里先でも匂うから、今が盛りだね」
▼彼とはもう何年ものつきあいだが、あまり口数は多い方ではない。この業界にありがちな自分を盛り気味に話す人ではない。その彼が最近とみに話すようになった。昨日はいっしょにいる間に、ほぼ彼の半生を聞かされることになった。「この先にお寺があるでしょう。あそこで住み込みで働いてたの。八年くらい」「お坊さんになるはずだったの?」「いや、ただ間借りしてただけ。大工の見習い」という具合。
▼「それからちょっと他所に手伝いに出た時、そこの親方がいくらもらってる?ってきくから六千円て答えたら八千円出すからこっちきなって。そこで十年くらい働いたけど、給料が一円もあがらないからやめて自分で始めた」「それでうちの増築。子どもが大きくなったら勉強部屋がほしいとか、一部屋増やしましょうとか自分で話して全部決めてやってた」
▼「お金は工事前の手付に半分、完成したら半分。そしたら兄貴の知り合いが幼稚園やってて、兄貴の知り合いだから安心して、全部終わってからでいいよーって言ってたらいつまでたってもくれない。催促してるうちにどっかいっちゃった。それでやめた」「そのころ知り合って四年のベトナム人のスーってのが道路拡張工事の話持ってきて、一年くらいそっちで働いて」
▼「それが終わって○○さん(彼が現在所属している人夫出し)紹介されて。もう何十年もなる」還暦過ぎの彼は四十そこそこで現在の境遇に身をやつしたことになる。「その時はもう免許流してたの?」「いや、まだ。オレチェロキー乗ってたの。税金七万六千円」大酒飲みの彼は、会社から現金としては一円も受け取っていない。渡すと飲んでその辺で寝てしまうからだ。
▼車載テレビが川島なお美の訃報を流している。「おふくろもガンだった。全身に転移してボロボロになって、手の施しようがないって」「いくつくらい?」「63.付き添ってたんだけど苦しんで三日三晩眠らない。それで先生におふくろ眠らないからオレも眠れない。なんとかしてくれって言ってもどうにもなりませんって。オヤジはもう外に出ていっちゃって。そしたら今までもがいてたのが急にシンとなって」
▼車がホテルの前を通る。「昔ここで家族会やった。オヤジとおふくろと兄弟みんな集まって」「何人兄弟?」「六人。ほんとは七人だけど一才で死んじゃった。それでオレが仕事帰りに乗馬ズボンに地下足袋で行ったら、お客様、もう少しきれいな恰好でないと困りますって入れてくれなんだ」「どうしたの?」「みんなに遅れるって連絡して着替えて行った」
モルタルを打って二人で水が引くのを待つ。「誰かが教えるもんだから遊び覚えちゃって。一晩で何十万も使った。七十万おろして一週間もたなかったもん」「いくつくらいの時?」「23、4かな。ハコスカ乗って彼女を迎えに行って。小○ちゃん、本名木村○子、清水の出。ナンバーワンだった。その娘が一万二万の服なら私いらないとこきやがる」
▼終わって帰りに寮まで送ってやる。「ここの道通って○×文化センターに小林旭見にいった。オレ島倉千代子千昌夫も見たことある。千昌夫なんてオジサンだよ。ただ歌がうまいだけ」「ここら一帯雑木林だった。そこに○×商店あるでしょ。あれがポツンとあるだけ。ある日そこにこれより先入るべからずって書いてある。書いてあると余計に入りがくなる。おふくろと二人で入っていくとキノコがたくさんあって。ほら、ここにも、あそこにもってやってるうちに出口がわからなくなった。仕方ないから高い木に登ってグルって見回すと遠くに○×商店の看板が小さく見える…」
川島なお美でないが、普通、人は他人の死によって人生のはかなさに思いを致す。でも僕は他人の人生によって、人生の短さを実感する。ここでランダムに語られていることは、そのまま僕のブログのようなものだ。子供時代の幸福な思い出、青春時代の武勇伝、修行時代を経て独り立ちしたのも束の間、あまりうまくいったとは言えない仕事人生、肉親との別れ、ささやか趣味…僕の人生と大差ない。

日曜は根菜炒めに夏野菜サラダ。季節の変り目だ。