有限実行

昨日まで残暑が続いていたが、今朝はずいぶん寒かった。今日で9月も終わり。二夜連続の名月とともに本格的な秋の到来である。
▼今日は下請が他の現場が忙しくてこちらに回れず、大型物件は休工。望外の休日となった。まあプロパーの監督がいるのだから好きに休んでいいのだが、なんとなく現場事務所に通ってしまう。習い性というのは恐ろしい。今回の監督は会社のエース級なので、理解が早くストレスが少ない。僕も計画を立てて見積しているだけに、執行する段になって自分のイメージとまるで違うことをやられると心中穏やかではない。デキの悪い奴に限って自分の考えに固執し、営業のいうことをきかない。
▼昨夜はそのエースと、もうひとり来ている若い社員を連れて着任一か月を労う焼肉会。ということは8月の着工から二か月過ぎたことになる。早いものだ。焼肉代+代行代×3人分はかなりの出費である。しかしそこは芸人といっしょで50の僕が全額支払うのが筋だ。監督は一回り下、若いのは自分の子どもの年だ。こういうことは対お客さんに限らず、身内の会合でも大事なことだ。
▼逆に友人や同輩なら原則ワリカン。余裕がある時に見栄を張って同輩に奢ってみたり、サイフの中身が心もとないからといって若いのに出させるのはよくない。要は原理原則であり世の中のルールであり一貫性である。自分の懐具合は関係ない。僕はそういうことがわかっていなかった。そういうところでその人の人望が決まる。
▼月曜は事務処理で遅くなって、帰りの車中でNHK「仕事の流儀」を見る。プロフェッショナルは肝臓ガン手術の泰斗高山某氏。川島なお美の死因が肝内胆管ガンだったこともあり、タイムリーな内容ではある。だが僕はブラックジャックのような鮮やかな手捌きと謙虚な人柄を併せ持つ名医よりも、むしろ手術から生還した患者やその家族の方に興味を抱いた。
川島なお美はともかく、普通肝臓ガン患者の大半はもっと高齢である。テレビに出ていた患者さんも、いずれも70そこそこという印象だった。超高齢化社会ではまだ死ぬ年ではないが、高齢であることには違いない。この人たちは手術したことで、しなかった場合より何年長生きするのだろう。手術しなければ余命2年。成功しても再発すれば似たりよったり。ただ成功すれば、再発するまでは余命宣告からは逃れられる。
▼こういうことに年齢はあまり関係ないかもしれない。何年生きても死ぬのは怖い。手術は成功し、本人も家族も歓喜の涙を流すが、それ以前に手術できることになっただけで安堵する。何年生きるかはわからない。必ず成功するとも限らない。手術が成功しても再発するかもしれない。実際のところ、余命2年が余命5年になったところでさしてうれしくはないだろう。
▼彼らは延命そのものよりも、不確定性を獲得したいのだ。まるでまだわからないうちは死なないとでもいうかのように。確定していない未来は可能性そのものである。その可能性にすがっているうちに、僕は50になってしまった。しかし何かをなしえるためには、怖くても人生の有限性を直視し、期限を切って計画をたてねばならない。「何か」なんて言ってるうちはダメだけどね。
▼今日は午前中のうちに無呼吸と水虫の病院(ヒドイね)と散髪まで済ませ、ヨガから帰ってきた妻と近所の盛りのいい蕎麦屋でランチ。

妻は冷やしぶっかけ。僕は中華定食。ここはいつ来てもうまい。みんなよく知ったもので13時を回っても客が切れない。ランチの後は、いつものようにブックカフェに立ち寄る。ユルスナールの自伝的三部作に手が伸びかけてやめた。ほんのわすかではあるが、読書欲に復活の兆しが見える。

▼さて、僕もそろそろ残りの時間を見据え、できること、できないことを決めていかなければならない。数年前から同じことを言ってるような気がするが、最近ようやく実感できるようになってきた。何も特別なことではない。それが人生設計というものだ。

夕飯は鶏とじゃがいもの炒め煮に夏野菜サラダ。月曜はミートローフ、火曜は今シーズン最後のガパオライスだったそうだが、写真を撮る前に子どもたちがワーッと食べてしまったそうです。