言葉の問題

ここのところ忙しく、ブログが滞り気味だったので、新幹線の中で一気に更新しておこうと思う。何もない僕ではあるが、家族にだけは恵まれた。それが人生において大切なことのほとんど全てで、これ以上望むことは何もないのだが。
▼美人で性格のいい妻と、健康で素直な子供たち。家族との生活は、身内とはいえ別人格であることに気づかされる新鮮な驚きの場面の連続だ。反面、なんか変だなというしっくりこない感じがない。それは端的に言って言葉の問題だと思う。そのことを考えるにあたって、年末のある日に放送されたニュースステーションがいいヒントになった。
▼それは、のっけから古館一朗直々の山谷ルポに始まる特集だった。古館がある日雇い労働者にインタビューした時のことである。その男は自らの窮状を自嘲気味に話した後、古館に向かって唐突に「明日は我が身だよ」と言ったのだ。
▼一瞬それが誰に向けて発せられた言葉か理解できなかった古館に、山谷をリポートする資格がないことは一先ず置くとして、それを言った本人ですら、言葉の正確な使い方を理解していたわけではないだろう。ただその言葉を知っていて、考えもなく使った。かくして言葉はなんとも収まりの悪い雰囲気を湛えて宙に浮くことになる。
▼特集はさらに続き、土地柄に似合わないモダンな造りのホテルと、先代から受け継いだ山谷らしい木賃宿を共に所有する経営者を紹介する。その若いオーナーの台詞に、僕はまたひっかかった。彼は全くスタイルの違う二つのゲストハウスを、「もてなしという同じひとつの大風呂敷の中に…」と表現したのだ。「大風呂敷」ってこんな風に使う言葉だろうか。まあどんな風に使おうと自由だが。
▼妻と知り合って以来、彼女との会話でこのような違和感を感じたことは一度もない。粘着質でネガティブな僕に比べ、あっさりして前向きな妻。まるっきり性格が違うにもかかわらず、結婚生活が続いている唯一最大の原因はこれにつきるかもしれない。