新春子供新聞

明けましておめでとうございます。本年もどうぞボクログをごひいきに。さて、早々に帰りの新幹線の中である。明日からの仕事のことを考えると気が滅入ることこの上ない。
▼新年にあたって、何か予測や決意のようなものを書こうと思うが、何も浮かんでこない。だいたい僕は年末の雰囲気は大好きだが、年始のそれはきらいなのだ。クリスマスから大晦日にかけて、一年が暮れてゆく風景。特に仕事納めから年越しまでの全ての義務から開放された数日(今の仕事についてからは数時間しかないが)が僕の最も好きな時間だ。
▼年が明けると、もう次の義務が待っている。思い出はなく、これからやらなければならないことばかりだ。この歴史のない白けた明るさ。世間的には新年にめでたい雰囲気を感じる人もあるかもしれないが、僕は懐古趣味の人間なのだ。今後日本では、僕のような懐古趣味の人間が確実に増えていくだろう。これまでよりこれからの方が悪くなるに決まってるからだ。
▼年末年始にかけての季節感は、新聞の光景にも見てとれる。年の瀬が近づくにつれ、いろんなジャンルについて一年の回顧記事が増え、やがて夕刊がなくなり、正月版の後三日まで休刊。経済活動が休みになると書くこともなくなるようだ。
▼正月は、ほかの世帯の新聞に、ほかの世界が広がっていることを知る機会でもある。例えばうちの実家は産経で、妻の実家は毎日である。毎日のスポーツ面は、高校ラグビーだけで見開きニ面×2を割いていた。毎日基準では花園の面積が世界の20%以上を占める計算だ。きっとスポンサーかなんかになっているのだろう。
▼産経はボーダーレスな「性」について特集していたようだが、読む気がしなかった。ニューハーフの人には悪いが、正直それどころではないのだ。産経の意図がどこにあるのかわからないが、相変わらず天邪鬼というかズレているというか。
▼昨年の日経の年末回顧は、いよいよ映画と音楽がいっしょくたになって一面ぽっきり。日本経済新聞だからかもしれないが、人間の活動はいよいよ経済活動だけになりつつある。
▼その映画時評。日経シネマ万華鏡寄稿者が三氏共韓国の「息もできない」をベスト3にあげていたのには驚いた。正直なところ僕は退屈で途中で眠ってしまった。今日の世界の問題の核心は、特別な環境にない普通の人たちにも不幸が忍び寄っている点にある。産経の特集もそうだが、生い立ちや出自の特殊性を問題化するセンスは、それだけで?がつく。
▼昨年は序盤、僕にしては珍しく映画館に足を運んだが、話題作が必ずしも評判通りではなく、またしても次第に足が遠退くことになった。特に「鉄男」はひどかった。塚本監督もこんなお遊戯会みたいなことしてて恥ずかしくないのだろうか。
▼こうしてみると、政治経済以外の世界だって、それほど見るべきものがないことがよくわかる。そもそも新聞によってもたらされる情報は、日本人の四分の一程度の成年男子がかろうじて信じている世界にすぎない。女子供は新聞なんて最初から見向きもしない。妻が見るのはチラシだけだし、子供は長男が時々スポーツ面を見るだけだ。次男坊に至っては漢字を読むことすら覚束ない。
▼それで彼らの世界が貧しいかといえば、そんな風には見えない。例えば次男に道案内をさせると「そこをまっすぐ、もうちょっと行くと左に猫の子供が死んでる」と言ったりする。彼らの目の前に広がっている世界の方が、きっと十分に豊かで素晴らしいものにちがいない。