それから〜一西日本人の感想と態度

ニュージーランド地震の悲惨な記憶も冷めやらぬうち、東日本を巨大地震が襲った。僕が住む地方は幸いにして被害はなかったが、それでもめったにない揺れを感じた。
▼恥ずかしいことに、この歳になるまで災難という災難に会ったことがなく、当初は起こっている事態を正確に把握することができなかった。いや、今だって本当には何ひとつ理解しているわけじゃない。
▼僕が感じたのは二回目の揺れだった。仕事仲間に「今地震あったの気付いた?」と言われ、「全然」と答えた直後に景色が歪むようなめまいを覚えた。
▼ただ樹々を揺する風が強くなっただけだ、働きすぎて体調でも壊したかなと思ったのが金曜日の15時ちょうど。そのまますぐに車に乗り込むとNHKラジオが津波情報を叫んでいる。それから誰にケータイをかけてもつながらなかったが、それが地震のせいだとは思わなかった。
▼次にカーラジオの津波情報が気になったのは15時40分頃で、○×沿岸に6mの津波到達を予測していたが、それがその時刻だった。「今、この時間に到達していることになりますが」というアナウンサーの言葉が、事態の不可遡性を実感させた。
▼構内放送が何度も流れ、工場従業員の作業はもちろん業者の工事も全て中止になった。事実は地震直後にメーカー社員は待避しており、単にその時点まで僕が気づかなかっただけである。
▼夕刻になり、妻が電話でテレビは全局災害報道番組だと伝えてきた。驚くというよりむしろ当然な気がした。下の子が電話口で「ドラえもんクレヨンしんちゃんもない」と言おうとして妻にうるさがられているのが微笑ましかった。その日は残業してかなり遅くなった。
▼翌土曜日、実家が東北地方の作業員が「家族と全然連絡がとれない。じっとしててもしかたないから」といったんは出てきたが、「やっぱりダメだわ」とすぐに帰った。
▼その日まではまだブログに別の話題をアップしたり、月末上京する折に会っておきたい友人たちに見舞いがてらのメールを送る余裕があった。しかし現在に至るまで彼らから返信はない。結婚する友人本人からは式の延期を示唆するメールがあった。
▼事態の深刻さ、悲惨さは日増しに大きくなっていった。死者行方不明者は軽く一万人を超え、原発は予断を許さない状況が続く。家族を捜す被災者の様子を見ると思わず涙ぐんでしまうのはもちろんだが、最近はなんでもない拍子にすぐ鼻がぐずぐずいうようになってしまった。災厄というほかはない。