震災が奪うもの

うちの台所の給湯機はかなり能力が低いらしく、他の水源が使用されていると温水が出ない。例えばお風呂を沸かしたり洗濯機を回すと、水圧の関係なのかお湯が出なくなる。
▼パートに出ている妻は、家事を手早く片付けようと、帰宅するとこれら全てを同時にやろうとしていつも失敗する。「ああまたやった。バカね…」独り言を呟きながら冷たい水で洗い物をする妻の背中に僕はそっと手を合わせる。「甲斐性なくてゴメン」
▼一番困るのは、冬場に用をたして水を流し、温かい水で手を洗おうと台所に回って期待を裏切られることだ。全然温まらない水を前に僕はしばし呆然とする。「意味ないじゃん…」かといって、トイレの水を流さないわけにも、手を洗わないわけにもいかない。なかなか本題に入れない。
▼民放の震災報道で、いつも元気のいいコメンテーターが「そんなの被災地者の苦労に比べたらなんでもない」と息巻いているのを見て「危ないな」と思った。買い占めは厳に慎まなければならないエゴイスティックな行為だ。このように震災は人々からまともな思考を奪う。しかしその対極にあるように見える「被災者に比べれば…」の論理は、まともなものもそうでないものも含めてあらゆる思考を奪う。
▼うちの給湯機の問題は、お風呂にも満足に入れない生活を強いられている人たちに比べれば、取るに足らない問題に違いない。しかし東北の被災地でも、震災前にはこういう取るに足らないことで泣いたり笑ったりしていた生活があったはずだ。震災はそのような取るに足らない日常を、被災地の人たちから物理的に奪っていった。そして被災地以外の人たちから心理的に奪おうとしている。