昔々大相撲という国技があった

ここ2、3日、季節を二ヶ月先取りしたような暑い日が続いていた。ようやく降り出した雨も、暑かった分長引きそうな気配だ。
▼この時期は、そこいら中にツツジが咲いている。赤、白、ピンク。単色だとそれなりに綺麗だが、なんだか紙でできているようだ。そのうち茶色くなって萎れるまで、実に長いこと花をつけている。何事も量が多かったり長ければよいわけではない。ツツジ園とかツツジ祭りというのもよく聞くが、サクラほど人気がないのは結局そういうことなんだろう。
▼帰宅途中、カーラジオが相撲の結果をしゃべっているのを聞いて、虚をつかれて少し驚いた。それは端的に言って「大相撲ってまだやってるんだ」という感想であり、もっと言えば、そのように思ってしまった自分に驚いたのである。
▼伝統ある大相撲が、度重なる不祥事に続き、長年噂されてきた八百長の具体的なやりとりが明らかになり、本場所の中止に追い込まれたのは記憶に新しい。理事長の放駒親方は「膿を出し切るまで本場所を開催しない」とまで言い切って、この問題に真剣に取り組む覚悟を示したが、残念なことに人間は忘れやすい動物だということを忘れていたようだ。
▼一場所放送中止、一場所開催中止、一場所技量審査場所。不祥事や八百長のせいではなくて、三場所連続でお茶の間から遠く離れたことで、大相撲はもう取り返しのつかないくらいダメになってしまった。これは僕個人の見解だが、大相撲が元に戻ることはもうないだろう。
▼それにしたって、いくらなんでも「技量審査場所」はないだろう。誰も大相撲にそんなものを期待しているわけではないのだ。大相撲が絶対やらなければならないことはただ一つ、年六場所、やっている時だけは真剣に見るが、あとは相撲のことなんか眼中にない普通の人たちのために、それぞれの家庭でお母さんが夕食の支度をしている時間帯に、NHKでまったりと放送することである。
▼その意味で大相撲は、プロ野球に似ている。日本のプロ野球、なかんずくナイター中継は、ほとんど夏の風物詩なのだ。最近はスポンサーの都合で放送延長してみたり、視聴率が取れないという理由から巨人戦すら放映されなかったりとまちまちだが、八時五十四分打ち切りでいいから、巨人戦だけは欠かさず放送されるべきなのだ。僕はヤクルトファンだけどね。
プロ野球は夏の風物詩だが、相撲は両国の初場所夏場所秋場所の間に、春の大阪、夏の名古屋、冬の九州を挟む一年を通しての行事だ。日本人の生活の中に、それと意識されないほどに深く根差している、春の花見や、夏の海水浴、秋の秋刀魚や冬のコタツと同じようなもの。
リーマンショックから東日本大震災に至る我が国の不幸を、ある人は16年前のバブル崩壊から阪神大震災の流れに、ある人は大正時代の関東大震災に重ねるかもしれない。だが今日本で失われつつあるもの正体を、僕は大相撲中継のようなものだと思っている。それはひとことで言えば、歳時記のようなものだ。
▼9日の夕食は妻のレパートリーのひとつ瓦蕎麦もどきにカモ風チキンサラダ。それに僕の大好きな筍をしてくれたのだ。

下の子に「おとうさんタケノコあるよ、よかったねえ」と言われてしまった。
10日はソボロ丼に蕎麦サラダ。「蕎麦が二日連続になる」と言って妻が拒否したので写真はなし。そして今日のメインはにゅうめん。

昨日まで超暑かったので下の子がソーメンをリクエストしていたが、今日は寒くて食べる気がせず、急遽温かい椀物にしてもらった。隣の一見ヨーグルトデザートに見える小鉢は、実は白和えなのだ。

豆腐と豆だから相性がいいのは当たり前なのだった。