消費社会の神話と構造

さて、昨日は仕事を10時に切り上げて妻とプレミアムアウトレットに行ってきた。

曇り空をつっきって愛車を飛ばせば約一時間半で到着。ウイークデーにもかかわらずそこそこの人出である。

全国数ヶ所に点在するモールのうちのどこに行ったのかは、例によって伏せておくけどバレバレだね。
▼ちょうど昼時だったので、そのままフードコートに直行。ピザーラで僕はピザのW、妻はフォカッチャのセットを注文し、屋外のテラス席へ。

まったりと食事しながらしばらく二人でヒューマンウォッチングを楽しんだ。
▼頭にサングラスをさし、POLOのポロシャツに犬を連れたいかにもセレブ風な奥様。悠々自適の年金世代老夫婦。ベビーカーを押す「名前をなくした女神」たち。財布代わりのジジババといっしょの幸せ三世代。娘は行かず後家、母は熟年離婚のおふたりさま母娘(違ったら失礼)。彼らに混じった僕たち夫婦は、このテーマパークの中でどんな点景となっているのだろう。

▼尊敬する人気ブロガーの最近のエントリに、「そこにしかないもの」以外はなんでもある街の話があった。郊外、あるいは地方都市のショッピングモールにはなんだってそろう。そのだだっ広い駐車場に、ソフトバンク片手にワンボックスカーで乗りつけ、ユニクロに吸い込まれていく人の群れは絶えない。それは、僕的には奥田英朗の「無理!」の小説世界に見えてしまうのだが、みんなはどう感じてるのかな。
▼以前のブログで、東京自由人さんの「東京人」の部分にではなく「自由人」の部分に憧れると書いたが、認識が誤っていた。差異と多様性が許されるためにはある程度の人口集積が必要だ。大都市だけが選択の自由と独自性を保証される。すなわち「東京人」=「自由人」なのだ。自由人さんも自らの職業やライフスタイルを、東京でこそ成り立つものだと言っていたが、それは謙遜ではなく矜持だったわけだ。
▼山を切り開いて忽然と現れたこのプレミアムアウトレットも、多少高級感はあるが、どこにでもある街の派生形には違いない。事実、全国に全く同じ造りの街が、何ヶ所もある。だが妻はとても楽しそうだ。喜々として目が輝いている。妻は悪くない。生活以外に何もない地方不自由人にとって、消費は唯一のカタルシスであり、欲望の正しいはけ口なのだから。
▼僕のポロシャツと子供のTシャツと妻のサンダルを購入し、この夏の買い物はこれでオシマイ。ちょっと前に話題になったアイスクリームデザートの店「コールドストーン」に入ってみる。飲食店まで最新より少しだけアウトレットみたいな的な。妻はベリー×3グッド、僕はクーリーズのダブルマンゴーをオーダー。

スタッフが歌を歌いながら冷たいプレートの上でアイスを一度練ってから盛りつけてくれる。ひと練りすると食感が滑らかになるのかな。マックフルーリーみたいなもんだが、平均サイズで約600円。マックの倍だ。歌って単価が倍になるなら僕も接待でマイク離さんけどね。往復3時間、滞在3時間の楽しい平日デートでした。
▼ちなみにエントリタイトルはフランス現代思想のスター的記号学ボードリヤール出世作だが、現在ではあまり有効な議論ではない。現代消費社会の特徴は、人気ブロガーの言う通り、自動車とショッピングモールの街アメリカンカントリーの増殖だ。そこにあるのはただただ生活と、むきだしの欲望だけである。人がもしパンのみのために生きるのであれば、確かにコンビニエンスな世の中には違いない。歴史と伝統あるヨーロピアンにとっては、ちょっと想像しにくい社会だったかもしれない。