東北震災リポート①

一週間ぶりのエントリーである。先週東北に行ってきた。僕の勤めている会社が震災当初から復興支援で被災地入りしていることは既に書いた。その他の社員も一度は自分の目で見てこいという話だ。うちの会社は支店も営業所もないローカルの小さな土建屋だが、こんな会社そうはないと思う。まさに小さくてもキラリと光る会社だ。
▼作業所が石巻にあることは知っていたが、行ってみてびっくり。なんとあの多数の児童が流された大川小だったのだ。これを書いてしまうと、特定しようと思えばまちがいなく特定できてしまうが、大川小を伏せるとほとんど何も書いたことにならないので、覆面ブロガーの素性がバレる危険を承知で敢えて書く。
▼うだるような暑さの中火曜日の昼過ぎに新幹線で出発。

夕方、仙台の次の古川駅に到着。東北はまだ梅雨のただ中だ。

古川から約1時間太平洋に向かって車を走らせると、北上川がそそぐ海沿いの町、石巻市に着く。周囲には巨大ながれきの集積ヤードや仮設住宅が散見されるものの、整然としている。市街地も波を被ったというが、外から見る限り何事もなかったかのように見える。この時点で午後7時に近く、この日は同僚の宿舎でウチノミ。

同僚が実家のジンギスカン料理を振る舞ってくれた。臭みが全くなく超ウマイ。酒を飲みながら現場の状況を聞いて、気分よく床に着く。
▼翌朝車で作業所に向かった。石巻市街地から、原発特区で合併しなかった女川町を挟んで北上川の枝に別れた北側、釜谷地区の作業場まで車で30分。内陸部から堤防沿いに走ると、生徒たちが集団避難しようとした鉄橋が見えてくる。橋げた2スパン分が流されて、川の中央に沈んでいる。車が走っている道も一度決壊した堤防を復旧した砂利道だ。川と反対側も広く冠水し、時折舟や車が腹を見せて転がっている。
▼その橋のたもとからぐっと弧を描いてスロープを下った小学校のグランドが、この地区のがれきの集積ヤードとなっていて、当社の社員は現地で最大級の重機七台、車両二台を使用して、集まったがれきの汚泥をはね、分別し、置場を整理する要の役割を果たしていた。
▼現場は整頓され、総じて落ち着きを取り戻しているように見える。校舎も当初はバスが突っ込んでがれきに埋まっていたが、全て自衛隊員の手で取り除かれたそうだ。小学校の周囲は片付が進み、片付が済んだ跡にはコンクリート製の基礎以外何も残っていないので、見た限りでは乱雑な印象は受けない。が、寂寥感は覆いようもない。
▼全校生徒108人中74人が亡くなり、引率した教員も11人中10人が亡くなった大川小では、震災から三ヶ月以上がたった今でも、連日警察による捜索が続き、慰霊碑の読経の声が絶えることがない。まさに今度の東日本大震災の象徴とも言える場所だ。
▼当初一週間ほどいて、あちこち見て歩くつもりでいたのだが、どこにも行かず小学校にとどまり、予定を切り上げて金曜に帰ってきた。作業を手伝ったわけでもないのに何かにあてられたようにグッタリして、いくらでも眠れる。知らず知らずのうちに気が張っていたのかもしれない。
▼やはり実際に現地に足を運ばなければわからないことは多い。それが何なのか言葉で伝えることも大事だが、まだ考えがうまくまとまらない。とりあえずケータイ写真をアップしておくので今回はご容赦ください。
あの大惨事がまるで嘘のように、梅雨晴れの青空の下、北上川は悠々と流れていた。動いている重機もいつもの護岸工事と錯覚してしまうほどだ。

やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに

とにかく泣けて泣けてしょうがない。 合掌