カモとムスコの観察日記

台風一過。いつもならピーカンになるところだが、今夜は驚くほど涼しい風が吹いている。暑がりの妻が今年の夏初めてクーラーのスイッチを切った。夏休みが始まれば、また夏らしい陽射しが戻ってくるだろう。
▼鉄筋四階建最上階の我が家から、住宅街の一角に残る一反ほどのたんぼが見える。そのたんぼを根城にしているおひとりさまの鴨のことは前に書いた。長らく我々の目の前から姿を消していたその鴨が、四羽の子鴨を連れて帰ってきた。

最初に見つけたのはいきものがかりの下の子。梅雨入りの頃、鴨が一匹突然姿を現して暢気に毛繕いなんかしてたのが、急にいなくなり、しばらくして再び四羽の子供を連れて帰ってきた一連の出来事を、彼の小さな頭はどんな風に理解したのだろう。
▼お祭りの時、友達といっしょにいる彼に「ママが夕飯どうするかきいてたよ」と言うと、隅の方に引っ張っていかれ、「お願いだからみんなの前でパパとかママとか言わないで」と懇願していた彼が、一匹だった頃と同様にいたりいなかったりする親子ガモの動静を、妻には逐一報告しているようだ。「今日はいた」「今日はいない」というように。
▼息子は多くを語らないが、きっとものすごく大切なことを学んでいる。生命の不思議をじっと見つめている。ほとんど行かなかった大学の、唯一面白かった川原先生の名講義「哲学概説」で、先生がおっしゃっていた、全ての哲学の基礎となる最も哲学的な態度。日本語にすると「観照」だか「観想」だかになるギリシャ語の「テオリア」ってこのことじゃないかしら。先生、そういう理解でよろしいですね?ああ、先生は僕の答案に「可」しかくれなかった。当然ですね。
▼子供が成長する過程で時々に見せる「テオリア」の態度は、まさに小さな哲学者の風格を備えている。例えば男の子なら誰にでも経験があるだろう。幼稚園から小学校低学年くらいの頃、まるで熱にうかされたように小石を拾い集める時期がある。そのような時期にタイムリーに鉱物図鑑なんかを与えると、興味が長続きして自然と学者への道が開けるかもしれない。そういうのがいい教育というのかもしれない。
▼だけど僕は、たいていの人が子供の頃の短い一時期だけ、はしかにかかったように小石や昆虫や小動物に夢中になってすぐに醒めてしまっても、それでいいと思う。まだ言葉が未分化だからこそ、子供は「存在の根源」のすぐ傍にいる。その短いはしかの一時期が、あらゆる人間が「そのこと」について一生懸命触れ、観察し、考える唯一の期間なのだ。それはけして無駄にはならない。たしか賽の河原のように、小石を積み上げては崩れるのを繰り返して眺めていたギリシャの哲学者もいたっけ。
▼僕の会社に、飽きちゃうと仕事中でもタケノコとかタコを取りにいっちゃう人がいて、その人が収穫したナスをカゴに入れて会社の玄関に置いてあった。

どうですか。先日他社の部長からもらったものと比べてもずっと大きい。あんまりでかくてもグロテスクで気持ち悪いな。これでも遠慮して、というか気味が悪くて小さいものを選んだつもりなのだ。大きければいいってもんじゃないね。どんな肥料をくれてやったのだろう。ある意味彼も大きな子供みたいなもんだ。

水曜は妻の得意レパートリーじゃがいもと枝豆の明太クリームパスタ。木曜は会合でウチゴハンなし。