観想から実践へ、子供から大人へ

先日、「世のオトコどもはみな檀れいの魅力にはまって金麦を買ってしまう」とブログにエントリした直後の結婚報道にビックリ!お相手は個性派俳優ミッチーこと及川光博。初めて彼をテレビで見た時は「こんな芝居がかった芝居で大丈夫か?」と思ったものだが、蓼喰う虫も好き好きだね。ああ、どこぞの審美眼に問題のある絶世の美女が僕をみそめてくれんかな。
▼では好みはどのように決定されるのか。男は恋人に母親の面影を追い求めるという説がある。僕はいわゆるギャル系の娘が苦手だ。黒い髪に白い肌、目のクリッとした大和撫子がタイプである。そりゃ普通か。具体的にいうと若い頃は原田美枝子がたまらなく好きだったが、確かに母に似ていないこともない。僕の母は自称「八乳房薫似」(八股の蛇か。ウルトラ級の天然なのでおゆるしください)のかなりの美人だ。
▼では好みは絶対かつ不変なのか。男にとって母親は永遠の恋人なのだろうか?僕もその線に沿っていろいろ恋をしてきたが、最終的にたどり着いた今の妻(初婚だけどね)は、色だけは白いものの母とは似ても似つかない。結論から言うと、女性に限らず、自分の好みの世界に安住しているうちは、人生はまだ始まっていない。「好き嫌いは美の価値基準にならない」のだ。
▼この考えを理屈っぽいと感じられる向きもあろう。「好きなものは好き。嫌いなものは嫌い」というのもひとつの素敵な生き方ではある。だが僕は、学生の頃何かの授業で誰だっけか教授の口からこぼれたこのセリフを、前後の脈絡なく拾って酒場でふりかざしていた頃とはまた違った意味で、深く噛みしめられる年になった。
▼休みは映画やお芝居を観るのが好きという人もいれば、終日パチンコか、うちでテレビを見て過ごすという人もいる。そういったライフスタイル全体の選択から、音楽はジャズが好きといった個々のジャンルの好き嫌いまで、好みを主張しているうちは人はまだ人生の醍醐味を知らない。それは確かに心地よい世界だが、いつも見慣れた自分の頭の中の風景でしかない。そこに新しいものは何もない。
▼人は様々だ。ジャンルの好き嫌いはともかく、ライフスタイルの違いはそれぞれの人生をあまりにも違った様相にする。だがそれもあくまで表面的なものだ。ルックスやライフスタイルは本質的な問題ではない。ひとりで個人的な趣味を言い募っても、それはあなたの趣味でしかない。結局のところそれは、檀れいに憧れて金麦を買うのと同じことだ。
▼本当に重要なものは、他者との共同作業的実践行為の中にこそ存在する。そこにこそ新しい価値が生まれる。毎日新しい発見がある。そんな我が家のウチゴハン劇場。
水曜は唐揚げのあんかけに豚バラとアスパラの福神漬ソース。

今日木曜は鶏のシソチーズ巻きにジャガ芋のトマトソース焼き、冷奴にホットサンドの豪華四本立て。

生まれて高校を出るまで、僕は母親の作るもので育ててもらった。もうそれと同じくらいの年月を妻の料理を食べて過ごしていることが、なんだか不思議な気がする。