ゆるく考えよう!(パクリ)

二年前の正月に帰省した際、途中下車して、関空から出国する親友を前夜から集合している仲間たちといっしょにに見送った。親友は高校の同期。仲間たちは、僕が二年留年して社会人になって二年目に就活中の彼らと親交があったから、四つ下ということになる。
▼その中に、就職してすぐに会社をやめ、ボスニア・ヘルツェゴビナに行った人がいた。彼がまだ学生の時に一、二度会ったきりだったが、大きな体躯のまんまのおおらかな人間という印象だった。15年ほどいた彼の地で細君を得、最近日本に帰ってきたばかりで、外国人の奥方に働いてもらって自分は大学に入り直すと言う。
▼デフレ、ワーキングプア、勝ち組負け組…見渡せばせちがらい話題ばかりだが、自由に生きてく方法なんていくらでもあると思った。そして自分の人生を縛るものは自分自身の狭い考え方だけなんだな。「しばらく日本でゆっくり勉強し直そうと思ってるんです」地元でいろんな援助があるのかもしれないが、関西訛で屈託なく話す彼が眩しく、生活に汲々とするだけの自分が情けなかった。
▼旧ユーゴの惨劇について、遠い日本の僕が理解できることは少ない。そしてそれは多くの日本人も同じだろう。国内の東北の震災でさえ、津波をかぶって倒壊した家屋や腹を見せて転がる車や船を、映像で見るのと現地に立つのでは感じ方がまるで違う。災害を体験していない西日本の人は、被災地の本当のところはわからないだろう。
▼今またコソボが緊迫した情勢にあるというが、ニュースだけを見聞きして彼の地で実際に起こっていることを想像するのは難しい。むしろ西側陣営に属する日本との関係から、旧ユーゴから分離独立したそれぞれの国に対する妙な贔屓感情や敵味方意識だけが植えつけられるのがオチだ。現に西側諸国にセルビアに対する敵対感情を抱かせるプロパガンダに成功した経緯を書いた「戦争広告代理店」という本もある。
▼話は変わるが、原発推進を目的としたやらせシンポジウムが次々と明るみに出ている。インタビューされた地元住民は「そんな会合なら意味がない」と言うが、僕が社用で参加する会合は全てそういう性格を帯びてるけどな。つまり僕はサクラで、時には挙手して何か喋るよう事前に言われていることもある。要は仕事の一関だ。そしてそのようなことが右左関係なく行われていることは、この件について国会で厳しく追及している共産党の先生方もよく承知しているはずだ。春闘の参加者だって純粋に自発的な参加者より組織的な参加の方が圧倒的に多いだろう。テレビの住民インタビューだってほぼやらせみたいなもんだ。
▼自由と言われる日本でも、中国のような国とは別の形で情報操作が行われている。世の中とはそういうものだ。大事なことは、まことしやかに語られていることを鵜呑みにして憤慨しないことだ。誰もが自分のことはすっかり忘れて他人のことにだけ目くじらを立てる。僕もよく人間嫌いになって厭世的な感情に支配されるけど、自戒しなきゃね。オマエは何様だってことだよね。
▼じゃあ真実を知るにはどうすればいいか。ひとつには現地に飛び込んで自分の目で直接確かめるという僕の友人たちのような方法がある。もうひとつは、どうせ眉唾ならもっともらしい偏向報道より、とるにたらない個人的な感想や呟きの方に耳を傾けるのもいいかもしれない。折にふれて紹介するようにしているのが山崎佳代子さんの「解体ユーゴスラビア」(朝日選書)。最近では日経スポーツ欄で読んだ、元セルビア代表FWミロシェビッチの父親が、サッカーについての口論が元で祖父に撃ち殺された事件を紹介するコラムが心に残った。
▼こういう悲惨なニュースを前にして僕がいつも思い出すのはドストエフスキーの「悪霊」である。親が子供を撃ち殺すまでに激高する理念てなんだろう。祖国を思う気持ち。民族の誇り。サッカーへの愛。どれも大事なものかもしれないが、我が子の命より大切なものはひとつもない。そのことを今本人が、痛切に噛み締めていることだろう。

金曜は冷やしラーメン。つけあわせに冷奴もあったが、不用意に発した「たったこれだけ?」のセリフが命取りだった。物凄い剣幕で怒り散らす妻に、仕事の疲れもあって、心の底から「絞め殺してやりたい」という感情がフツフツと沸き上がったが自制した。更年期なのかな?