渇く人

早いもので今日から9月。正月に帰省したのがついこのあいだのような気がするが、今年も残すところ三分の一。野球でいえば終盤である。立春から数えて二百十日目の今日は、折しも大型の台風12号の影響でさながら嵐の前の静けさといった雰囲気だ。足の速い雲が強い風に吹かれて次々と流されてゆく。蒸し暑い。
▼さて、野分立つ今時分の季節に誰もが頭に浮かぶのは、漱石の「野分」「二百十日」だろう。「文鳥」「夢十夜」などの小品から「文学論」に至るまで、その著作の全てを読み漱石好きを自認する僕も、これらの作品の印象は薄い。わずかに「二百十日」の中で主人公がグルメ談義をするシーンが微かに記憶に残る程度だ。不確かな感覚を当てにするのなら、季節感としてはむしろ「行人」の一郎が弟を使って妻の貞操を試す舞台となった宿の方が似つかわしい。9月は僕にとって、情熱の夏と成熟の秋の合間の、ひたすらに残暑をやり過ごすだけの不毛な季節なのだ。
▼数ある漱石の作品の中でマイベストを選ぶなら、「三四郎」「明暗」「彼岸過迄」の順だ。漱石をそれこそガツガツと貪るように読んでいた学生の頃は、神経症的というか、考え過ぎというか、気難しい性格の「行人」の一郎や「こころ」の先生に感情移入していたが、次第に三四郎や「彼岸過迄」の敬太郎の方が、実は自分に近いんじゃないかと思うようになってきた。自分はそこまで物事をつきつめて考えるタイプじゃない。むしろ肝心なことに気づかないがために、人生の大事を取り逃がしてきたような気がする。そしてその方がよほど罪深いことだ。なぜならそれは、自分の人生をしっかりと生きていないからだ。
▼僕が「三四郎」の中で最も好きな場面は、蓮実重彦氏が見事に切り取ってみせたように、熱を出して寝込んだ三四郎が、マドンナ美禰子の見舞の品の蜜柑の汁を貪り飲むシーンである。三四郎の病気は、有体に言えば知恵熱だ。彼の人生はまだ始まってもいない。考え過ぎも鈍感も、同じ罪深いナイーブさの裏表ということだ。
漱石が胃弱の割に大食漢だったことはよく知られている。結局彼は胃潰瘍が元で血を吐いて死んだ。ビールが大好きで、「二百十日」のツマミの話も漱石のそういった嗜好の一端が現れているのかもしれない。彼は常に餓えていた。渇いていた。その自らの渇きの正体を突き止め、その感覚をなんとかして表現しようと書き連ねたものが、今僕たちが夏目漱石という作家の手になるものと認めるいくつかの作品群である。「二百十日」だからではなく、人の心身からみずみずしさを奪い取ってゆくこの時期だからこそ、僕は漱石を思い出すのだ。
▼なあんて自分の口のいやしさをブンガクで虚飾してもしょうがないね。SASの検査入院と会合で三日休みのあとの今日のウチゴハンは冷しゃぶサラダにジャージャー麺とナスのトマトソースパスタの麺二種。


麺二種は、僕に似てやはりいつも渇いている下の子と僕でどちらか好きな方を選ぶという趣向。案の定僕も下の子も両方食べてみたくて、仲良く半分こして食べた。上の子はそんなことはしない。むしろどちらかを選んでしまえば、人と食べあいこするようなことを嫌う方だ。むろん他人が食べているものに興味も示さない。彼は渇く人ではない。だからもし漱石を読むとしたら、父親の僕とは違った読み方をするだろう。