先達に学ぶ

少しずつではあるが仕事が動き始めた。節電のための自動車業界の輪番休業も今月で終了。こうして日曜にゆっくり新聞が読めるのもあと数回だ。こんなに仕事がないのは初めてだと思ったが、夏にぶらぶら秋にぽつぽつ冬から春にかけて休むヒマもないというのはいつものサイクルだ。終わってみれば例年と遜色ない売上だったということになっていればいいね。
▼新聞の日曜版は読みどころ満載だが、特に楽しみにしているのが読書欄と、寂聴先生の「奇縁まんだら」。

奇縁まんだら

奇縁まんだら

横尾忠則氏の挿絵と共に、既に正続合わせて三冊も単行本化されているのにまだまだネタがつきる気配がない。人の一生を彩り豊かなものにしてくれるのは他者との交流である。傷つくことを恐れず相手の懐に飛び込む先生の勇気なくしてこれだけの知己は得られなかっただろう。まさに曼荼羅のように極彩色の人生だ。
▼こちらはデイリーの掲載だが「私の履歴書」も楽しみな企画。現在は元伊藤忠商事会長の室伏稔さんの連載だが、幼少期を振り返り「相撲ばかりとっていた」という記述を読んで、昭和は遠くなったと思ったものだ。僕が小学生の頃、1970年代までは休み時間に相撲をとるのはごく普通のことだった。土俵代わりの砂場で、まわし代わりのベルトをよく切ったものだ。
▼「大相撲の衰退もむべなるかな」と思いつつ、念のため下の子に裏をとると、「四年生くらいまではしてたよ」という。なんだ、僕らといっしょじゃん。「あのね、体重が重い人も強いけど、背の高い人も強いよ」そりゃそうだ。懐が深いんだもの。神社に必ず土俵があった室伏さんの頃とは時代は変わったが、こういうことは小石集めや虫とりと同じように男の子の成長過程に必須の条件として遺伝子に組み込まれているのかもしれない。
▼小石集めはともかく、虫とりや相撲とりの一番の眼目は、力加減を学ぶことだ。まず虫とりでいのちのやわらかさを学ぶ。年端のいかない幼子に蟻やバッタを持たせると、力の入れ具合がわからなくてつぶしてしまう。殺さないようにそっとつまむことを覚えることから人間としての第一歩が始まる。その次に同じ年頃の子どもと取っ組み合いをすることで、人間のかたさを学ぶ。どのくらい力を入れれば勝てるのか、相手にケガをさせないですむのか。どんなに力を入れても勝てないか。
▼僕が作家の自伝的小説に惹かれるのも、その時期にこそマトモな人間になるための秘密が隠されているのではないかと無意識のうちに探しているからかもしれないね。特に好きなのは井上靖の青春三部作「しろばんば」「夏草冬涛」「北の海」
北の海(上) (新潮文庫)

北の海(上) (新潮文庫)

大岡昇平の「少年」など。
▼さて、エアロビから帰ってきた妻と近所のそば屋でランチ。僕はかつ丼、妻は魚フライ定食を選択。


以前紹介したのとは別の店だが、ここも盛りがよくてコストパフォーマンスが高い。二人で1500円程度とこじゃれたお店の約半分ですむ。八年目にして近場に次々と穴場を発見するなんて、灯台もと暗しとはこのことだ。ああ、人類と日本人にとってモニュメンタルな日に全くノーテンキな夫婦だな。これでいいのか?いいとも!