土俵に鬼がいない

今朝の新聞で見たのだが、僕の危惧した通り、大相撲の観客減少に歯止めがかからないらしい。名古屋場所秋場所と再会後の会場は空席が目立った。やはり八百長問題の際に開催中止に追い込まれたり、NHKが世論を慮って中継を自粛したことが大きい。よく「問題に毅然として対処する」というが、世間の顔色を窺うのは毅然とした態度から最も遠いものだ。
▼この間協会が改革と言ってきたものは、ことごとくマイナスのものばかりだった。技量審査場所しかり、真剣勝負判定マークシートしかり。協会はファン心理がわかっていない。多くのファンは、別に全ての取組を真剣に見ているわけではない。贔屓の力士と人気力士、強い力士の取組だけを見ている。ましてや伝統や品位なんて見えないものに目を凝らしはしない。
▼僕が思うに、大相撲は朝青龍がよってたかってスポイルされた時点で終わった。強さだけが基準だと思われていた世界にも、出る杭は打たれる式の世間一般と同じ法則が働き、いろんなしがらみがあるんだなとわかってシラケた。昔は強い力士は憎まれて当たり前だった。僕らの世代で言えば北の湖隆の里は憎たらしいほど強かった。人間ぽい側面なんて金輪際見せなかったし、それでよかった。
▼その潮目が変わったのは千代の富士あたりから。横綱が愛される存在になってしまった。努力と筋トレで誰でもなれる普通の人間になってしまった。力士は人間離れした存在でなければならない。そのことを貴乃花は理解していたが、いかんせん愛される横綱だった。もちろんお兄ちゃんは論外だ。
▼日本人の力士に人間離れした強さを求めることができなくなれば、外人がとって代わるしかない。小錦、曙、朝青龍。強い外国人力士はみな憎まれ役だったが、実は外人力士だから嫌われたのではなく、強い力士はみな嫌われた。高見山を初め、愛される力士は本質的には弱いのだ。強さを競う世界で愛されるのは恥ずかしいことだ。
▼大相撲に、すなわち力士に求められているものが究極的には何なのか。そのひとつの答えをさだやす圭のまんが「ああ播磨灘」に見ることができる。

ああ播磨灘 (1) (講談社漫画文庫)

ああ播磨灘 (1) (講談社漫画文庫)

主人公の播磨灘は毎回仮面をかぶってプロレスラーのような土俵入りをする。内館牧子が見たら卒倒するような人を喰った横綱だ。「負けたら即引退」を宣言し、土俵の上でも下でもマナー知らず。だが滅法強い。その播磨灘が、当時の大乃国をモデルにした気が優しいだけの横綱や、千代の富士をモデルにした心技体そろった円熟の横綱になりふり構わぬやり方で土をつけていく。
▼勝つことだけが全てという播磨の態度はファンはもちろん協会まで敵に回すが、ある時おばあさんが播磨に向かって手を合わせる。「ナンマンダブナンマンダブ」…
白鵬よ、木鶏なんか目指さずお年寄りに畏怖される鬼になれ!彼がもう一皮剝けるかどうかは、このお行儀の良さを脱ぎ捨てることができるかどうかにかかっている。
▼さてわが家で最強の横妻の今日の作品は前回の成功に気をよくした分厚いタイプのキッシュに下の子の要望に応えて黒い色のミートローフ。

デザートは手作りのブルーベリーチーズケーキ。

参りました。