見逃 しの三振が一番よくない

今日は待ちに待った小曽根真のジャズライブの日なのだった。例によって午前中に現場を回して途中で抜ける。土曜の雨がまだ残っていたが、会場に着く頃には空に晴れ間も見えた。結婚以来日常生活にかまけてなかなかこんな機会も作れなかったので、妻もうれしそうだ。
▼開演前にフレッシュネスバーガーで腹ごしらえ。

会場はバブル期に建てられた立派なコンサートホールで、ジャズライブと言うのが憚れるようなハコだ。客層は母子連れや、どうみても還暦過ぎのおじさんおばさんが多い。主催企業がチケットをOBや音楽教室や下請に引き受けてもらった結果だろう。かく言う僕も会社で配給されなければ買ってまでは来なかった。地方でこのようなジャズのイベントを開催する難しさを垣間見たような気がする。
▼僕とジャズの関わりは、大学二年から三年にかけての約二年間。その間に僕は高校の同級生に恋をして、彼女の影響でジャズを聴きかじり、下宿の近くにあるジャズバーにせっせと通った。マスターはタモリと同期の元バンドマンで、学生相手のその店には、やはり学生だか卒業生だかの日替わりシスターズがお店を手伝っていた。
▼そのうちのひとりが、気後れして毎回喋らずに帰っていく僕にある日「なんで何も話さないの?」ときいたことがある。「ジャズ、あんまり詳しくないから…」と僕が答えると、「あら、私もよ」と言ったきり二度と声をかけてもらえなかった。また別の娘には、何の話だったかカウンター越しに二言三言質問された後、いきなり「この子ホントに何にも勉強してないわ」と袈裟懸けにバッサリ切り捨てられた記憶がある。たいして年も違わないのにまるで子供扱いだ。女ってのは大人になるのが早いね。
小曽根真のことは僕が多くを語らずともみなさん存じ上げていることでしょう。いや、知ってる人は知ってるし、知らない人は知らないか。当り前だね。フタをあけてみると、ライブは三部構成。一部はアルトサックスがバンマスのカルテットと黒人トロンボーン奏者によるミクスチャー。二部は女性ボーカルとピアノのデュオ。そしてトリが小曽根真率いるビッグバンドだ。
▼僕は小曽根真のCDを一枚きりだが持っていて、今日初めて聴くわけではない。
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彼のテンポのよい、テーマが勝ちすぎる演奏も、ビッグバンドという構成も、好みではないが、前の二組が前座にすぎないことは素人耳にもわかった。最初のカルテットでは窮屈そうだった世界的なトロンボーン奏者も、小曽根バンドで再び登場すると水を得た魚のように息を吹き返していた。
▼この会場に来ている観客は三種類いる。ひとつは「この居酒屋ジャズが流れててなかなか雰囲気いいね」とか言ってる人たち。小曽根真のことも名前しか知らない。かたや拍手や掛け声のタイミングもわかっている生粋のジャズファン。チケットも自前で購入し、今日のこの日を心から楽しみにしていた人たち。
▼僕はちょうどその中間にいる。マイルスやコルトレーン、ハービーハンコックやチックコリアらジャズ界の巨人たちと同程度には小曽根のことは知っている。それはかつてCDで聴いたことがあり、居酒屋インスツルメントよりは聞き分けがつくという程度だ。実際今日の出演者はいずれも相当な実力者ばかりのようだが、小曽根以外は一人も知らなかった。ビッグバンドのバンド名No Name Horsesとはよく言ったものだ。
▼とはいえ前の二組に何も感じなかったわけではない。カルテットのリズムセクションではドラムが安定していた。カルテットのリードにはアルトは向いているが、トロンボーンは楽器として向いていない気がした。そんなことよりあまり冒険しないピアノの女性に憧れのマドンナを重ね、地下のジャズ喫茶で「ソロのとれないピアノ」と自分で言ってた彼女との雨の日のデートのことを思い出していた。
▼二組目の女性ボーカルの「マイフーリッシュハート」では、なぜか脈絡もなく親友のお母様が口ずさんだ「フィガロの結婚」のアリア「恋とはどんなものかしら?」を思い出して泣けた。大学の三年の冬、父親を亡くした親友に僕がモーツアルトの「レクイエム」のCDをあげた時のことだ。お母様は愛おしむようにこうおっしゃった。「お父さんがコンサートに連れて行ってくれたの。今でもはっきり覚えてるわ」
▼何も考えず、何の雑念もなく、ただ単純にライブそのものを身体全体で楽しめたのは間違いなくトリの小曽根バンドだった。だが我々は結局のところ、そんなに純粋な現在だけを生きているわけではないのだ。ライブにはいろんな楽しみ方がある。とにかく行って、見て、その場の感情に身を委ねることだ。スイングしなけりゃ意味ないね。