何をどう語るべきか

父の誕生日以来ほぼひと月ぶりに実家に電話した。さすがにひと月あくと僕、長男、次男×父、母の6通り話すので、途中で子機の充電が切れてしまった。やはり週イチくらいの間隔が適当なのかもしれない。
▼来月またショートステイだときいていたので、タイの洪水の話をふってみると、マレーシアなので関係ないという。ジム仲間にもよく心配されるらしい。あちらに縁のない日本人にとってはタイもマレーシアもタイ差ない。ナンチテ。逆にむこうの日本理解も似たようなものかもしれない。
▼父によればタイはこれまで雨季だったそうだ。これから乾季になるので洪水も収束に向かうだろうと言っていた。マスコミも昨日今日の大潮みたいな話より、もっと広い目で解説してくれんかな。日経はようやくホンダの冠水した設備の影響を一面で取り上げていたが、速報義務のない素人のブログの感想より指摘が遅いってどうなん?記者発表の席でふんぞりかえって情報が「遅い」だの「隠すな」だの罵声を浴びせるだけなら楽な商売だ。
▼さて最近ほぼ毎日更新してきたブログだが、ここ三日ほどお休みした。書こうと思えばネタがないわけじゃないが、それこそ仕事じゃないので無理をする必要もない。これからも気の向くままに綴っていくことにする。
▼尊敬する詩人荒川洋治氏が、何かについて語る場合、形になるのは原稿用紙五枚程度だとどこかで書いていたような気がする。それ以下なら単なるつぶやき。それ以上だととても一口には語りつくせないことだ。何かを語るにはこれくらいの長さが調度いい。逆にその長さなら、少なくとも何かがそこに語られていなければならない。
▼僕のブログもいつの間にか毎回似たような長さに落ち着いてきた。ほぼ1500字、だいたい原稿用紙四枚程度だ。何か書いて、最後に妻の手料理でしめるというパターン。どちらかだけだとなんとなく物足りない気がする。また、どちらかだけのブログもよく見かける。
▼手料理だけのブログを何かに例えるとすれば、子供の写真だけの年賀状だろうか。要するにジコマンの世界だ。最近はこの手のブログが多くなった。食べ歩きにしろウチゴハンにしろ、不特定多数に発信する以上多少の普遍性は担保したい。
▼日曜日、材料の足らずを買いにホームセンターに走ると、無農薬野菜を売るテントが出ていた。その店の主が客に話していた内容がたまたま耳に入って嫌な気持ちになった。その人は、農薬を使った野菜を食べている人たちのことをバカだと言って続けた。「そういう人たちはカラダに悪いものを食べて死んじゃえばいいんだよ。自業自得さ」
▼少し前の僕なら、この逸話から「確かにいいものかもしれないが、こういう人が作ったものを食べたくはない」と結論づけただろう。しかし今は少し違う感想を持っている。今はこういうお行儀の悪さを咎めだてする時ではないのかもしれない。そういう枝葉の部分はとりあえずおいといて、無農薬野菜を食べるようにする。原発についてもそういうスタンスが大事なのかもしれない。
▼けどなんかしっくりこない。まだ僕の言葉じゃない。今の木に鉄を接いだようなスタイルは、そんな苦しさの中から自然と生まれてきた折衷案なのだ。

金曜は中華料理チェーンの工場直売餃子。まあまあの味だ。

土曜は牛丼。そして日曜はチョリソーにカレー。アルコールはサッポロ黒ラベルに安ワイン。最近ブログを開くと新しい☆がついていることが多くなった。TM2501さん、kandume162さんありがとう!