歌は世につれ世は歌につれ

今日は冷たい雨になった。しばらく忘れていたほどの冷たい雨だ。思わずハイファイセットのヒット曲「冷たい雨」が口をついて出てしまった。世代がわかるなあ。

雨というのはさまざまな記憶を呼び起こす。今日の雨は僕の前にどのミューズを連れてきてくれるのだろう。
▼高校の同級生の女の子と、大学一年の冬から三年の秋くらいまでつかず離れずの関係を続けた僕は、その恋心にセンチメンタルな旅でピリオドを打ち、本格的なアル中へ向けてせっせと冬支度をしていた。表面的にはおりしも同棲中の彼女に捨てられた先輩とバイトに明け暮れる日々だったが、精神は徐々に蝕まれつつあった。
▼生活費どころか私学の高額な学費まで自分でまかなっていた先輩は、昼の空調屋のバイトが終わるとそのまま社長の長男の家庭教師をしにいった。言いかえれば社長は、赤の他人の子どもを卒業まで世話してやったことになるが、それはともかく僕は先輩とそこで別れ、一日八千円の日当をその日のうちにあるだけ飲んでしまった。
▼一軒目二軒目はどこで飲んでも、最後に必ず流れつく店があった。僕はその店で酔って正体をなくしては、女の子に介抱してもらうことを期待してたんだな。有意の日本男児にあるまじきとんでもないテイタラクだ。今の僕がこんな若者を見たらきっと相手にしないな。全く銃殺ものだ。
▼そんなある日、常連の女性客が帰る間際、僕は何を思ったか間髪入れずに席を立つと、いっしょに店を出て彼女のタクシーに無理やり乗り込んだのだ。彼女は抵抗したが「いいからいいから」とかなんとか言ってうやむやにしてしまった。まさに酔っぱらいとは思えない電光石火の神業だ。
▼経験上言えるのは、こういうことは少しでもシラフだとうまくいかない。完全に酔っぱらって無心にならないと。彼女は髪の毛を刈り上げたキップのいい娘さんで、みんなから〇×ちゃん(名前ももう忘れてしまった)という愛称で呼ばれる人気者だった。年の頃は同じくらいじゃなかろうか。
▼彼女のおうちは店からほど近い、おそらくはワンメーター圏内の住宅街にあった。入り組んだ路地を抜けた二階家の、入口から直接階段を上がったところが彼女の部屋だった。かなり酔っていたのではっきりしたことは言えないが、靴を脱いで階段を先に上がりながら「散らかってるよ」と少しはにかんだように言う彼女の口調は、僕を受け入れているような響きがあった。
▼板張りの小奇麗な部屋に、背の低いベッドがひとつあった。階段の途中にも部屋の中にも人形があったような気がする。普通に考えれば彼女が服飾関係の仕事か勉強に使うマネキンだろうが、その時の僕はそんなことは思いつきもしなかった。何かのオブジェ、トルソーだと思った。ブレードランナーか。それくらい当時の僕は浮世離れしていた。
▼彼女が板張りに何か飲み物を出してくれて一息ついた後、沈黙が流れた。照れ隠しなのか彼女は「もう寝るよ。その辺でテキトーに寝てよ」と言って、着ていた服のままベッドにもぐり込むと僕と反対の壁の方を向いて布団をかぶった。着替えようにも僕がいたら着替えようがないか。
▼僕は彼女に襲いかかったが、抵抗されておとなしく引き下がった。それからどれくらい時間がたったのだろう。外が明るくなって、彼女が目を覚ました。僕はもちろん眠れなかった。まだアルコールが残って身体が熱っていたが、徐々に酔いは醒めてきていた。実際その頃はいつだって四六時中身体が熱っぽかった。
▼僕は彼女に言った。「このままここにいるわけにはいかないかな」彼女は返事をしなかった。もう神通力はきかないな。僕は立ち上がり階段を下りていった。僕がスッカラカンであることを見越してか、彼女はお札を手に僕を追いかけてきた。「お店で会った時に返してくれればいいよ」僕はそれにチラッと目をやっただけで受け取らずに背を向けて歩き始めた。
▼雨が降っていた。その雨の中をどこをどうやって歩いたのか、僕は何時間もかけてずぶ濡れになりながら自分の下宿までたどり着いた。
♪冷たい雨に打たれて、街を彷徨ったの(中略)冷たい雨が降るたび、あなたを想うでしょう(中略)こんな気持ちのままじゃどこへも行けやしない。
なにしろ、酔いざめに冷たい雨に打たれることが多い学生時代だった。雨に濡れながら歩く当時の僕も、思わず「冷たい雨」を口ずさんでいたんじゃないかな。

ゆで卵の黄身にハートマークを発見。近々なんかいいことあるかも!