美術批評×野球評論=?

明日からグンと冷え込む予報だが、今日はまだポカポカ陽気だ。僕は雲の形に季節を感じる方だけど、みなさんはどうですか?晩秋だというのについこないだまで入道雲が出てるなんて、やっぱり今年はなんか変ですよ。今日も正面にマグリットの絵みたいな雲が浮かんでいた。この時期にしては雲に存在感がありすぎるんだな。
マグリットの絵は時代的にもシュールレアリスムとの関わりで捉えられたり、エッシャーのだまし絵といっしょに紹介されたりすることが多いが、僕自身はマグリットの絵は評価していない。

マグリット NBS-J (ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

マグリット NBS-J (ニュー・ベーシック・アート・シリーズ)

それは僕がアンディウォーホールを評価していないのと同じ意味においてだ。▼彼らは別に忘れられた芸術家というわけではない。それどころか今でも数多くのファンを持つ、むしろ著名なアーティストと言っていいだろう。知的センスをくすぐるそれなりの刺激を得られるかもしれない。しかしそれは絵描きが絵画表現としてやらなければならないこととは違うような気がする。
▼彼らの絵はパターン化されている。それは例えば作家の文体であるとか、芸術家をその人たらしめるスタイルとはちょっと違うと思う。いやちょっとじゃなくて真逆かな。彼らの作品は一見オリジナルなものに見えるが、芸術家が長い試行錯誤の末に獲得した、他の誰にも真似できないその人の特徴ではなく、単に作品の生産のために編み出された定型パターンなのだ。それは芸術家が、表現の革新を目指す戦いを放棄したことを示すと同時に、そのこと自体を隠す行為でもある。
▼とはいえウォーホルに比べ、マグリットにはまだ救いがある。彼の絵には、人の心にさざ波を立てる何かが感じられる。彼はその小さなさざ波に耳を澄ますべきだった。わかりやすい謎解きのモチーフで見る者を煙に巻くのではなく、本当の謎解きに自らが挑むべきだった。
▼さて、今年の日本シリーズは本当につまらない試合を見せられている。これ以上荒木のアホヅラを見たり井端専用応援コールを聴くのはちょっとホントにツラい。落合監督はクビになって当然だろう。「勝てばいい」とか「野球人にできるのは野球だけ」というのは、別にオレ流に限らずどこの世界にもある内輪の理論だ。
▼自分の殻を破るどころか、自分からバリアを張ってその世界に閉じこもってしまう人はよくいる。落合監督は優秀な現場監督のようなものだ。工期を守り、品質を守り、金を残す。それでお客が離れていっても「それはオレの仕事じゃない」と意に介さない。八年間職業監督としては立派な成績を残したかもしれないが、子供たちが憧れるような選手を一人でも育てたのか。守備はうまいが打率2割5分ホームランなしの荒木と井端じゃ寂しすぎる。
▼DH制で打席に立ったこともないパリーグのピッチャーから送りバンドゲッツーを狙ったり、内野ゴロでもそつなく一点とるみたいな野球がプロの目指すべき野球なのか。少なくとも僕は、内向きの職業人が自分たちのために垂れ流す再生産の試合も作品も見たくはない。
▼昨日のウチゴハン豚丼厚切りバージョン。

毎日の献立だってある程度はパターン化しないと主婦業なんてやってられないだろう。でも妻は自分の都合だけ考えてゴハン作っているわけではない。パンピーの妻ですら、自分以外の家族のことを想って料理を作っている。ましてや有徴の人たちがひとりよがりの小さな世界にとどまっていていいはずがない。世界と人類の未来のために使命感を持って戦うべきだ。