ドカタとミシマ

生ぬるい曇り空から一転、冷たい雨の日になった。それでも防寒着がいるほどではない。それともアザラシみたいに皮下脂肪を蓄えすぎて、寒さを感じないのかな。今日から師走。月日が過ぎるのは早いものだ。不惑を過ぎてもいまだ青春真っ只中の超オクレ兄さんの僕だが、別の言い方をすれば「世間知らず」ということだろう。
▼初めてバイトしたのも確か大学一年の今ごろじゃなかったかしら。四半世紀前の昭和の時代にはまだ、初霜から小雪にかけての初冬の寒さは肌身にしみた。それともその頃はまだ僕も痩せた狼だったのだろうか。以前にも書いたように、上京して半年が過ぎても僕は地元の交友関係の輪の中にとどまったままだった。仕送りが潤沢だったわけではないが、僕はバイトもせず三畳一間の下宿と学食と銭湯を周回する毎日を送っていた。
▼一週間か二週間に一度、ひもじさと人恋しさがピークに達すると、地下鉄東西線に乗って下落合の同郷の先輩の下宿を訪ね、そこで先輩の実家から送られてきたインスタントラーメンを勝手に作って食べ、テレビを見たりマンガを読んだりしながらバイトに行った先輩の帰りを待った。僕の部屋にはマンガもテレビもなかった。
▼夕方四時からの再放送だったと思う。ブラウン管からは山田太一脚本の「不揃いの林檎たち」がサザンの「いとしのエリー」のテーマソングにのって流れていた。僕は高橋留美子の「めぞん一刻」を読みながら、時々顔を上げてそれを見た。そうこうするうちに先輩が帰ってくると、いっしょに近所の居酒屋にでかけた。
▼そこに時々やってきた先輩の友人の農大生に、僕は生まれて初めてとなるアルバイトを紹介してもらうことになる。1985年のことだが、居酒屋での話題は米の自由化問題だったと思う。どちらかというと自由化寄りの僕が一度もバイトしたことがないことを知ると農大生は、「なんだ、自分で稼いだこともないくせにエラそうなこと言ってたのか」と言った。
▼紹介してもらった日雇いの行先は、主として二種類あった。ひとつは小さな工務店の雑工。もうひとつはランダムな現場の力仕事だった。新築物件の竣工前の掃除や片付程度の工務店の仕事は楽だったが、若い監督に「タコ」よばわりされるので、きつくても力仕事の方がよかった。いつもコンビを組んだベテランは、力仕事の現場のときはよく休んだ。
▼たまたまその日の日給を手にするまでスッカラカンだった日に、狭い場所の土を掘る作業があって、加減のわからない僕は何も食べずに一日中スコップをふるって身体がおかしくなってしまったことがあった。昼休みになけなしの百円玉で買ったコーラを一気に飲み干すと、空っぽの胃に炭酸が滲みて死ぬかと思った。
▼結局それ以来僕は今もこの業界にいる。今ではこの業界になんの幻想も抱いていないが、当時は肉体を酷使して働くことが尊い行為のような気がしていた。三島由紀夫の「仮面の告白」の冒頭に、肥をかついだエタの男の股引の張った太ももに惹かれたといような記述があったと思うが、それに近い気持ちかもしれない。こういう憧れは若い時分、誰もが抱くものかもしれない。
▼三島の作品では、この「仮面の告白」に、代表作「金閣寺」それに有名な「潮騒」と「命売ります」とかいう中間小説っぽいものを読んだことがある。僕は三島の本質は前の二作にあると思う。つまり悪への誘惑を修辞的には硬質にデコレイトした、いわゆる耽美派である。
近代文学史に屹立する三島由紀夫については、そのエキセントリックな死にざまもあって、多くの研究書が出ている。元通産官僚だった平岡威夫は芸能界にも多彩な人脈を持ち、ボディビルで肉体改造するかと思えば市ヶ谷を占拠して割腹自殺してしまうなど実に多様な側面を持っている。その作品も、僕が読んだものだけ見ても振幅が激しい。仏文演習の講師は、三島のことを「なんでも自由自在に書けたんじゃないか」と言っていた。しかしなんだって書けるというのは、何も書くことがないのと同じことだろう。
▼講師はこうも言った。「彼は切腹の時痛みを感じなかったんじゃないか」確かに首から上と身体とのバランスが悪すぎる。要するに頭でっかちなのだ。自分の身体をボディビルで作り込んだように、小説も作り込めると考えたのだろうが、そううまくいっているとは思えない。ましてや世の中が自分の思い通りになるはずもない。憂国の士の割腹自殺は当然の帰結だった。
▼僕が学生の頃、人文科学の分野は構造主義と表層批評が席捲していた。酒飲んだもん勝ちみたいな、文学と生きざまがリンクしている田舎者の文学青年にとってはずいぶん生きにくい時代だった。くだんの講師にもずいぶんやりこめられたものだ。先生、僕の三島評どうですか?先生は僕が学生生活で唯一レポートを提出した上に皆勤した先生の演習に「良」しかくれませんでしたね。当然ですね。

今日のウチゴハンは豚の生姜焼きに水ギョウザ。あったまる。