人間の証明

なんだかんだ言って十二月ともなるとそれなりに冬らしい気候になってきた。いつものガードマンも着ぶくれして、まるで防寒着が立っているようだ。大型物件も着工して忙しい日々が続くが、うまく引き継いで工事が軌道に乗ればあとは監督プロパーの仕事。お役御免までもう少しの辛抱だ。
寒空に蓑虫太る師走かな
▼早いもので、はてなブログ生活もいつのまにか一年が過ぎた。やはり気になるのは読者からの反響である。以前にも自己流のアクセス解析を試みたことがあるが、それが可能なのもページビュー機能のおかげだ。コメントや足跡など直接の反応がほとんどない中で、カウンターの数字の変化はずいぶん励みになった。そういう意味ではブログをやる心理は肉親の愛情では満足できない思春期の心情に似ている。
▼さて、この1年で約2万ページビューがカウントされたわけだが、どのブログでもアクセス数とページビューのカウント数には三倍の開きがある。一度開くと五回分のエントリーが読めるボクログの場合、ページビュー÷5が実際のアクセス数となる。すなわち4000/年ヒット、一日平均約10回のアクセスだ。このうち半分は僕自身が投稿したり陶酔したりするときに開いたもの。あとの半分のうちボクログの存在を知っている妻と両親が毎日開くとして、残る二、三人が純粋なアカの他人ということになる。
▼これって前回の解析の時とほとんど変わってないような…二、三人というと、はてなキーワードで偶然たどり着いた人だけでもそれくらいいそうだし。イコールリピーターとはとても言えない。一度でも読んでくれさえすれば誰でも定期購読者になるなんて自信もどっかいっちゃったよ。なんにしろアクセス数が爆発的に増えることは当分期待できそうもない。
▼その理由は僕に筆力がないこともさることながら、現代社会において世代や階層の違うグル―プ間をつなぐ共通言語が存在しないことも一因であるような気がする。各グループ間の趣味嗜好の差異はもはや多様化のレベルを超えて、コンテンツの違いがそのまま言語の違いであるような断絶の様相を呈している。
▼例えばいろいろなブログをネットサーフィンする。タイトルやキーワード、足跡の多さなどからおもしろそうなブログを物色する。だがかなりの人気ブログのようであっても、それがアニメキャラの話題だと、もうついていけない。心の扉がパタンと閉じてしまう。そしてそれは僕がブログでミシマやルーセルに触れても同じことだろう。
▼ひそかにおっかけていたとあるブロガーが、高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」を「ぎりぎり現在にも有効な射程を持ちうる」と評していたのには驚いた。僕らの世代のバイブルが、レンタルビデオの準新作扱いだ。今の30手前の人たちにとって、インテリゲンチャンはもう老大家なのかもしんない。存命の老大家の代表作といえば、僕らからすれば小島信夫の「抱擁家族」とか野坂昭如の「アメリカひじき」みたいな感じになるのかな。そして僕はもう伊坂幸太郎や王城舞太郎以下の世代の小説を読む気がしない。
▼その高橋源一郎三島賞受賞の「優雅で感傷的な日本野球」まではよかったが、以後「ペンギン村に陽は落ちて」でマンガのDr.スランプあられちゃんの登場人物しか登場しない(本当のところはわからない。嫌気がさして読んでないので)ような小説を書いて「内輪の言説」と批判されたのに対し、「それを言うなら永田町の言葉も内輪の言葉」と反論していた。まあどっちでもいいが、内輪の言葉は内輪にしか通じないことは確かだ。
▼それはそうと、人気ブログになると月に百万人からの閲覧があるらしい。僕が欠かさずフォローしている尊敬するブロガー女史や敬愛する東京自由人さんなどは万人に通じる言葉を持っていることになる。内容的には「社会派」と「食べ歩き」だけど、その辺がポイントかもしれない。つまり人間は社会的な動物であり、生命維持の目的を超えて食に楽しみを見出せる生き物だということだ。逆にそれ以外に万人に共通の属性なんてないのかもね。
▼しばらく更新しないうちに写真がたまった。下請の人が牡蠣を持ってきてくれた。ぷりぷりの大振りでこの冬一番のヒット。一日目はカキフライ、二日目は牡蠣鍋でおいしくいただきました。

妻が手足同時にネイルアートしてきた。もう完全に帰省モードに入ってる。
ボクログの愛読者の方々にはどの写真が心に響いただろう。