読まずに言えるか!?

代休の土曜は雨模様の中、久しぶりに下の子と釣行を楽しんだ。イカゲソをしゃぶりながら愛車ムッスー号を駆ること海まで一時間の道のりもまた楽し。
海岸線白きキャンバス親子旅
芥川賞直木賞の選考が、毎年この時期に行われている。今年も昨年に引き続きダブル受賞となった。ちょうど一年前のブログでも芥川賞について投稿しているが、読み返してみると随分ひどいことを書いている。昨年の受賞は「美女と野獣」と評された西村賢太氏と朝吹真理子氏。
▼ブログではブサイクな西村氏をこきおろし、美人の朝吹氏を誉めちぎっているが、作品そのものにそこまでの差はないと思う。私小説の西村氏に対し、朝吹氏はどちらかといえば観念的で、作風はまるで違うが、都知事閣下の捨てゼリフを拝借すれば、どちらも「ある一定の水準に達していず、こちらの刺激にならない」
▼文芸だって売れてナンボの世界。朝吹真理子綿矢りさや川上美映子と同じ美人五割増しのクチだろう。ハムの佑ちゃんもそうだが、そこから先は本人の実力次第にしても、そこまではどうしたって実力以外の要素がものを言う。受賞会見で大荒れの田中氏の気持ちもわからぬではないが、世の中そういうもんだ。
▼じゃあ人気の朝吹、実力の西村かというとそうでもない。そもそも僕は西村氏が傾倒する類の私小説を全く評価しない。僕自身経験してわかるのだが、想像力のない者は自分のことを書くしかない。それだけなら単なる日記かブログかつぶやきだ。だからエピソードをおもしろおかしく膨らませる。他人の自慢話なんか犬も食わないから、勢い作品は自分をおとしめる方向にカリカチュアライズされる。
私小説のウリはこの自虐的な笑いにあり、私小説家最大の武器は自らを突き離す透徹した視線だ。だがそこに何か新しいものがあるのか?西村氏のような私小説家がもうひとり増えるだけだろう。
▼愚かな自分を冷静に眺めるもうひとつの視点。僕は芸術家の精神からこれほど遠い存在はないと思う。芸術に客観性はいらない。愚直に自らの信じる世界観を形にするのみだ。愚かな自分をネタにする私小説家はある意味狡猾でさえある。芸術家に必要な愚直さは、そのような小賢しさとは正反対のものである。
▼さて、会見で散々悪態をついて一躍時の人となった田中氏。ダブル受賞の円城塔氏をすっかりくってしまった。直木賞受賞者に至ってはもう名前すら思い出せない。今年は田中氏のひとり勝ちだ。高校卒業以来職に就かず郷里下関にとどまって小説を書き続け、過去四回候補にあがりながら落選。五度目の正直となった。
▼作家本人に社会経験がないことや、受賞作で自らの性衝動は父親の血に起源をもつのではないかと悩む17才の少年を描くなど、私小説の臭いがプンプンするが、西村氏の方に転ぶかどうかはわからない。会見を見る限り、いい意味でお行儀のいい方ではなさそうだ。僕もこの年になってようやく、お行儀のよさというようなものになんの意味もないことがわかってきた。
▼むしろ本人が言うように、作品にどうしても混入してしまう郷里下関の乾いた風が、中上健次にとっての熊野と同じ意味で、この人の可能性になるような気がする。小説とは一言でいって、この土地に吹く風をつかまえることではないだろうか。土着という言葉そのものが消えつつある日本において、これはなかなか難しい作業だ。自分にしか興味のない私小説に風は吹いていない。
▼どうせ自分にしか興味がないならもっと素直になればいい。自分大好き人間の妻にまたネイルに行かれてしまった。

でもその手でおいしい料理を作ってくれるからゆるす。土曜は煮魚好きの長男の期待にこたえられず釣果ゼロでチキンとゴボウのクリームパスタにチーズインフランスパン。

うまし。