なんでも知ってる

久しぶりに日曜当番から解放された。習慣で5時には目が覚めるが、便座で読む朝刊も日曜版だと気分が変わる。宵っ張りの長男はともかく、下の子も徹夜の宿題でリズムが狂ったのかなかなか起きてこない。妻は日曜の日課のエアロビに出かけた。冬晴れの絶好の釣日和だが、親子三人で午前中いっぱいパジャマのまま何をするということもなくうちでゴロゴロしていた。集合住宅四階の南向きの居間は、窓を閉め切ってさえいれば温室のように暖かい。やがて長男が部活にいき、続いて下の子が遊びに出ていった。
▼2008年、栃木県の町道脇の斜面に落ちていたスーツケースの中から、その一年ほど前から行方がわからなくなっていた、当時25才の大阪府守口市の女性の白骨遺体が発見された。先日、この事件の容疑者が逮捕された。埼玉県桶川市に住む51才の男には妻と三人の子どもがおり、件の女性との関係を清算するために犯行に及んだと自供している。
▼01年から09年まで十年近く、容疑者の男は宇都宮市に単身赴任していた。この単身赴任中に二人はチャットで知り合い男女の関係になる。二人がつきあった期間は男の供述によれば数か月、記事によっては数年というのもある。女の存在が邪魔になった男が女を東京のホテルに呼び出して殺害し、栃木県の道路脇に捨てたのが07年のことだ。
▼もう一度、犯人の年齢に寄り添って計算し直してみよう。2012年現在51才の男は、40代の約十年間を地方都市で単身赴任の境遇にあったことになる。働き盛りにマイホームを取得し、学童期の子供の教育のため、一般的なサラリーマンが選択する典型的な単身赴任の時期に重なる。自宅のローンと二世帯の生活費がのしかかる宇都宮在住のサラリーマンが、求職中の大阪在住の女と逢瀬を重ねるのはそもそも無理がある。週末は埼玉の自宅に帰っていたというから、多くても月に数回、それも女の方が男を訪ねる形だったのだろう。男の方はこの若い女に割けるものはあまり多くはなく、女の方は男に求めるものが次第に大きくなっていったはずだ。
▼最初から無理があるような人間関係を取り結ぶ機能がネットにはある。世の中には浮気とか不倫とか、そっちの方面でだらしない妻子持ちの男がいるにせよ、例えば営業所の所長と事務員など実際に毎日顔を合わせている間柄であれば、それも承知のつきあいである。栃木と大阪を行き来するような交際など端からありえない。
▼評論家の堺屋太一氏はネットの可能性について、地縁血縁を離れて趣味嗜好を同じくするものたちが交流しあう好縁社会の到来だと手放しに賞賛していたが、堺屋氏に代表されるようなコミュニケーション能力に優れた人たちは、ネット空間現実空間を問わず好縁を拡げていくものだ。そうでない普通の人たちにとっては、ネットは思わぬ落とし穴となるリスクの方がずっと高い。
▼その危険性とは、ネットを通じたコミュニケーションでは、その人が本当はどういう人なのか実はよくわからないところにある。親兄弟ならよくわかる。親戚もわかる。近所の人の評判もだいたいわかる。あまりつきあいがなくても不思議とわかるものだ。それが地縁、血縁である。別に男女の関係でなくたって、友人でも幼馴染や竹馬の友ほど気心が知れている。高校や大学ともなると、喧嘩したり酒を飲んだりして時には傷つけあいながら相手の人となりを知っていくしかない。
▼ネットを通じたコミュニケーションに欠けているのは、この身体性である。コミュニケーションには、最終的に身体性が欠けると完全には成立しない何かがある。なんだかよくわからない人と月に一二度会うことはできても結婚はできまい。仮想空間では見えなかったものが、実際にその目で見、声を聴けばいっぺんににわかる。幅広い人脈を誇る有徴の人はともかく、普通の人にとって信頼するにたる人間関係の範囲とは、生身の交流を伴うものに限られるのではないか。仮想と現実の落差が大きいほど埋めるのは困難だ。清算するには血を伴うことになるだろう。
▼この事件の犯人がハウスメーカーの販売員であったことは皮肉なことだ。この業界が売っているものが、ドリームハウスやアッタカハイムなどではなく、本当はサブプライムローンでしかないことを、単身赴任中に仮想空間に癒しを求めたこの男自身が体言している。そして宇都宮市守口市桶川市など多くの日本の地方都市には既に、地縁血縁が消失した均一の仮想空間のような現実しか広がっていないのかもしれない。

エアロビから帰ってきた妻が手早くビールのアテを作ってくれた。トマトのチーズ焼き。トマトは焼くと味が凝縮されてうまい。そして今夜のウチゴハンは得意の明太ポテトクリームパスタ。

妻がどういう人間か、僕が一番よく知っている。僕がどういう人間か、妻と子どもたちが一番よく知っている。