彼岸過迄

週に一度雨模様の天気がやってくる。昨日は冷たい雨が降った。雨が通り過ぎた今日は気温が上がる予報だったが、雲の低い肌寒い一日となった。お彼岸を過ぎてもなかなか暖かくならない。
▼下の子はとっくに卒業して春休みだが、大学の卒業式は例年25日前後である。僕は学業を途中で放り投げてしまって式に出ることはできなかったが、これから社会に巣立つ区切りの日というのはなんとも晴れがましいものだ。落第留年には慣れっこで、卒業式なんて気にもしていなかったつもりだが、こんなことを覚えているなんて、きっと本音は晴れ姿の学生たちがまぶしかったんだろうね。
▼昨晩は担当している事業所のとある部署の内輪の飲み会に飛び入り参加させてもらった。楽しかった。本来は接待すべきところなんだろうけど、接待しなきゃという感覚はない。ほとんど友達感覚に近い。一応会社から仮払いをもらっていったが、自分の分の会費を自分のポケットから支払った。要はよその会社の職場の飲み会に混ぜてもらっただけである。
▼金曜の夕方6時から。週休二日制で8時〜17時勤務の職場ならではの飲み会である。総勢10名。年齢層は二十代からOBまで幅広い。女性も複数いて華もある。話がつきることなくあっというまに二時間が過ぎた。帰りもあっさりしたもので半分ほどはその場で解散。残りの人の二次会について行くか迷ったが、あまりでしゃばってもと結局遠慮した。
▼こういう飲み会に参加すると、道を誤ったという想いが募る。商売女相手にハシゴ酒する土建屋の飲み方にはウンザリだが、いろんな職業を経験してきた中で言わせてもらえば、編集者(エロ)にしろ塾の講師にしろ、どこの業界も似たり寄ったりである。あまりきれいな飲み方とは言えない。いつまでもグズグズときりがない。端的にいってだらしがない。
▼それは僕も含めて彼らがミドルからこぼれ落ちた人間だからだ。中産階級の家に育ったものの、現在は薄給で雇われた下働きに身をやつしている。勢い飲み会はストレス発散の場とならざるをえない。全く衣食足りて礼節を知るだね。
▼そのまま帰るにはあまりにも早い。普通ならまだ事務処理をしている時間だ。めったに飲みに出ることもないので、年に一回行くか行かないかというお店に寄ってみた。年齢不詳のママがひとりでやってるバーである。春の嵐のおかげで金曜の夜にもかかわらず店は貸切状態。妖艶なママを独り占めだ。調子に乗ってマッカランのストレートをダブルで二杯も飲んでしまった。
▼一次会も楽しすぎてつい日本酒のひやをクイクイ飲んでしまった。ここんとこ疲れ気味で体調がよくなかったので二日酔いを覚悟したがなんともない。やっぱりいい酒をいい雰囲気で飲めば悪酔いしないんだな。なんでもメンタルが重要だね。
▼ところで漱石新聞小説に「彼岸過迄」がある。詳細は忘れたが、なんでもタイトルは「彼岸過ぎ頃まで連載するつもり」ぐらいの意味だという。しかし僕の記憶がまちがっていなければ、漱石自身これを「久しぶりなので面白いものを書きたい」と言った意欲作なのである。
▼以前にも書いたが、漱石の主人公には二通りある。「物事を考え過ぎる人」と「物事を真剣に考えたことがない人」である。「行人」の一郎や「こころ」の先生は前者のタイプだし、三四郎やこの「彼岸過迄」の敬太郎は後者のタイプだろう。それはどちらも同じナイーブさに根差す二つの現れだと僕は書いた。
▼「彼岸過迄」は、友人須永の紹介でおじさんの世話になることになった主人公敬太郎が、おじさんに言われるがままに訳もわからず探偵のマネゴトのようなことをする話である。いろんなことに興味津々ではあるが、結局は傍観者にすぎない敬太郎は、物語の形式的な主人公ではあっても自分の人生の主人公にはなりきれていない。要するに彼は自分の人生を生きていないのだ。
▼いろんなことに興味を持つのは結構だが、人生勉強は人生そのものではない。また他人の人生は自分の人生ではない。いろんなことを聞きかじっているうちに人生が終わってしまうことはままある。人の一生はそんなに長くはない。その間に何をやるか。早く決めてかからねばならない。いつまでも勉強したり悩んだりしてるヒマはないのだ。
現代社会に生きるほとんどの人は、ごく少数の実際家の世話になり、言われるがままに訳もわからず働く不本意な人生を強いられながら、そのことに気づいていないように見える。彼岸過ぎの雨の日に友人のおじさんの会社で言われるがままに働いている僕もそのひとりだ。

ウチゴハンにきのこパスタが出てきたらきのこ嫌いの長男が合宿で不在ということである。厳しい練習を課してきた顧問の先生がこの春異動になるときいて、長男はここ二三日タメ息ばかりついていた。この合宿が最後の薫陶となるだろう。青春だな。

デザートは妻の手作りで一番人気のチョコチップクッキー。大皿いっぱいのクッキーがたった一晩で半分以下になってしまった。