今昔物語

土砂降りというのではないが、かなりまとまった雨が降った。水たまりに間断なく丸い雨滴が落ちる。弱くなったり強くなったり、なかなかやむ気配がない。まるでひとつのサークルの、仲のいい人たちがおしゃべりしているようだ。最近雨の日が多い。雨ばかりだ。
▼中学に入って野球部に入った下の子は、帰ってきてお風呂に入ってゴハンを食べると七時にはもう寝てしまう。眠ると「あー、あー、あー」とか寝言を言ってる。おそらく英語の授業か野球部の発声だろう。新生活は彼にとってかなり過酷な環境のようだ。
▼雨降りの昨日は「ラクだと思ってたら今までで一番きつかった」そうで「腹減っていくらでも食べられる」とご飯をかきこんでいる。それは今に始まったことじゃないだろ。「学校の階段ダッシュしたでしょう」と言うと、「そうそう!なんでわかるん?」と目を丸くする。「パパもそうだったから」と答えるとうれしそうだ。
▼江中直紀先生の「ヌーヴォ―ロマンと日本文学」を購入して、もう十日近くたつ。いっしょに荒川洋治の文庫本も買った。どちらも興味のある本を同時に二冊。こういう買い方はよくない。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、気が散って集中できない。どっちつかずになってしまう。
▼ところでこの本は、生前一冊の著作も残さなかった先生がいろんな場所に寄稿した文章を、友人だった批評家の絓秀美、渡部直己、仏文学者の芳川泰久、それに作家の重松清の四人が集めたアンソロジーだと、文芸評論家の陣野俊史が日経の書評欄で書いていた。
▼このうち渡部と芳川は平岡篤頼研究室の江中の後輩で、フランス留学から帰国後三人で「レトリック研究会」を立ち上げる。絓は批評紙「杼」の同人。重松とは「早稲田文学」の編集に携ったと奥付のプロフィールに書いてあった。また陣野も江中より一回り下の早大仏文出の文芸評論家である。
▼江中先生の「最初で最後の」著作は、僕が学生の頃耳になじんだ固有名詞に満ちていた。授業で聞いた内容、サルトルやジッドのアンチロマンから始まり、プルーストフロベールまで射程を拡げ、サロートとビュトールに少し触れ、ルーセルに寄り道し、ロブ=グリエやシモンに多くを割いたヌーヴォーロマンの見取り図がそのまま書かれていた。
▼当時僕はトクサンの演習も受講していたので、二人の師弟から似たようなことを毎回聴いていたような気がする。でもほとんど学校に行かなかったのだから、お二人から一回ずつ聴いただけなのかもしれない。他の回ではまた別のこともしゃべっていたのに、単に聴いていないだけかもしれない。
▼トクサンに教わったジェラール・ジュネットフロベール論にはいたく感動した記憶がある。たしか「早稲田文学」に掲載された翻訳を読んだのだと思うが、その短い文章は江中先生が訳したものか、少なくとも先生の意向で掲載された可能性はかなり高い。またノーベル文学賞を受賞したクロード・シモンが89年に来日した際、トクサンの訳書が一時的に生協の本屋に平積みされたことがあった。江中先生が「平岡さんがせっせと訳してますね…」と授業でさりげなく触れていたことを覚えている。
▼江中先生の四人の友人のうち絓と渡部については、話題になった共著の「それでも作家になりたい人のためのブックガイド」は読んだが、正直あまり好きになれなかった。芳川氏のことは知らなかった。重松氏は四人の中では最もポピュラーな作家だが、これまで縁がなかった。現在日経夕刊に連載中の新聞小説も読んでいない。「早稲田文学」編集当時の彼は学生で、先生より一回り以上下の世代になる。陣野氏のことも日経の書評欄で目にするだけでどういう人かよく知らなかった。
▼こうしてみると当時の早大仏文研究室は活気があったような感じがする。フランス文学の最新の潮流の紹介窓口だったような感じだ。その感じは、その少し前に、ちょうど江中先生が留学していた頃のパリで、サルトル以降のヌーヴォーロマンの担い手たちが醸し出していた雰囲気の、ある種ミニチュア的なものかもしれない。僕はその輪に入ることができなかった。従ってその雰囲気を正確に伝えることもできない。
▼僕と同世代の教授がそろそろいてもおかしくない今の研究室は、トクサンも江中先生も亡き後、いったいどんな感じなんだろう。そして今の学生たちに何を教えてるんだろう。皆目見当がつかないのは、僕がその世界から完全に絶縁しているからだし、バブルがはじけてあまりにも時間がたったからかもしれない。

水曜はビーンズカレー。カレーの時は妻がヨガに行く日。

木曜はギョウザとカラアゲ。

そして今回の足ネイルはペイズリー柄なのであった。