問わず語り

梅雨入りでひと雨降った後の日曜は強烈な陽射しに見舞われた。気温も30度近くまで上がり、日中の屋外は真夏同然だったが、夜の室内はまだ涼しいものだ。今日はまた梅雨の空に逆もどり。陽が完全に遮られると、随分気温が低く感じられる。
▼私事になるが、当地に引っ越してきて丸九年が過ぎた。年をとると毎年同じことの繰り返しなので、自分の年齢すらわからなくなる時があるのだが、はっきり言えるのは越してきた年が冷夏だったこと。実際あの夏はほとんど雨だった。手元のパソコンで調べると、2003、1993、1988年が冷夏となっている。つまり僕は2003年の6月にここに越してきたわけだ。
▼その十年前の1993年は、都落ちして実家に戻り、進学塾の講師になった年だ。その夏も記録的な冷夏だった。中三ともなれば、特に女の子はもう立派な大人である。新米講師の拙い授業運びに頬杖をつく、一人の女生徒の醒めた視線と共に、寒々とした教室の空気が今でも鮮明に蘇ってくる。
▼さらにその前は1988年とあるが、大学三年だったはずのその年の夏のことを、僕はあまりよく覚えていない。ただそれまで住んでいた日当たりのよい南向きの二階の三畳間から、一日中陽の当たらないじめじめした薄暗い部屋に下宿を移ったのは間違いなくこの年のことだ。僕はその後、都合6年に渡る学生生活のうち、残りの4年を最後までそこで過ごすことになる。
▼昨日グレアム・スウィフトという英国の作家の「ウォーターランド」という小説を読了した。

ウォーターランド (新潮クレスト・ブックス)

ウォーターランド (新潮クレスト・ブックス)

奥付に日本語初訳が2002年とあるが、ブックカバーはこちらの本屋のものだ。してみると2003年に越してきてすぐに購入したのかもしれない。このように僕は結構積読タイプであるが、最後まで読み通すことができるかどうかは、内容を含めて文章の調子が自分の生理に合っているかどうかによる。
▼よく財界の人なんかで「思考(知識)の巾を拡げるためにあえて不得意分野を読む」みたいな意見に出会うが、物好きだなと思う。ちなみに僕が今最も目を通している文章は、自分のブログである。自分好きだなと思う。それはともかく何度も手にして読みかけては中途で挫折するということは、自分の生理的リズムではないということだ。そういう作品がそのまま押入の闇に埋もれずに、この梅雨時に晴れて?日の目を見ることほどうれしいことはない。
▼さて、「ウォーターランド」とはどういうお話か。妻の赤ちゃん誘拐事件をきっかけにリストラに直面した壮年の歴史教師クリックが、突如授業中にフランス革命の話を切り上げ、子どもたちに向かって自分の話を始める物語である。丹念にたどられる母方の父祖アトキンソン家の歴史や、後に妻となるメアリーとの青春のエピソードが語られるにつれ、妻の突然の神がかりや、実の兄が知恵遅れであるわけが次第に明らかになってゆく。
▼人間の物語と平行して、クリックはもうひとつの主人公である生まれ故郷の土地「フェンズ=沼沢地」の特徴を描写することも忘れない。なにもかも一気に押し流してしまう洪水や、知らぬ間に少しずつ堆積する泥との人類の気の遠くなるような格闘=浚渫や干拓事業は、放っておけば簡単に無に帰してしまう人間の記憶の忘却との戦い=歴史の記述、あるいは自分語りの比喩なのだ。
▼ある日ついに一介の歴史教師たるクリックが、ルイ16世やロベスピエールについて語ることをやめ、ひたすら自分のルーツを語る衝動を抑えることができなくなったように、僕も毎日の単調な仕事を適当に切り上げて、パソコンの前でクリックする欲求に抗うことができない。まずは何から始めよう。アーヴィングがレスリングについて書いたように、青春を捧げた柔道部にしようか、それとも三四郎よろしく期待と不安に胸高鳴らせて疾走する東京行の列車の中から始めようか。
「子どもたちよ…」
▼なにしろ全ての物事には理由があり、つながっている。それについて誰もがわかるように説明しなければならない。そして一見説明がうまくいったように見えて、それは表面上だけのことだということも、フェンズの人間なら本能的に知っているのだ。けだし久々の傑作であった。

日曜出勤から帰ると大好きなズリラーがお出迎え。下の子は僕にとられると思ってボールを抱えて移動する。これにも何か理由があるはずだ。

そして今日はポテトグラタンに肉巻。

デザートはブルーベリー入りのレアチーズケーキ。どうして僕の妻が美人で性格が良く料理もうまい=端的に言っていい女なのか。これについてもいつか万人にわかるような説明がいるかもしれない。