精神的な支柱

ここ三日ほど曇り空が続いている。涼しいを通り越して寒いくらいだ。梅雨の中休みならぬ夏の中休みだね。部活とジムで家人が不在の午前中はダラダラとテレビを見て過ごす。日曜の休みも今日で最後だが、振り返ればうちでテレビばかり見てたな。僕もそんなに高級な人間じゃないや。「パチンコしかすることがない」なんて他人を揶揄する資格ないね。
▼子供たちは昨日から夏休みのはずだが、二人とも毎朝部活に出て行くので上の子が通信簿を持ち帰らなければわからなかった。上の子は小さい頃からずっと成績がいい。通っている高校はレベルの高い学校ではないが、成績優秀者には就職にしろ進学にしろ推薦の道が開けているだろう。日々の生活をまっとうに過ごしてさえいれば、受験で無理することもない。まさに「鶏頭となるとも牛後となるなかれ」だ。彼の将来は明るいと思う。
▼僕は子供の通信簿なんててんで頭にないが、自分が子供の頃父に見てもらう時の気持ちを思い出すと興味を示すフリくらいはしてもよかったかなと思う。だけどそれも成績次第かもしれない。下の子はあまり成績がよくないせいか、毎回通信簿を進んでは見せたがらない。実際ほとんど見た記憶がない。今回も妻によると「25日にならないともらえない」と言ってるらしいが本当だろうか。
▼子を持つ親として、どうしても大津いじめ自殺が気になってしまう。親が一番に子供の発するシグナルに気づかないといけないという意見もあるが、子供が親の仕事の世界のことがわからないように、親が子供の学校生活の内幕を知ることは難しいと思う。会社、学校、家庭はそれぞれ独立した社会で、それぞれが抱える問題はそれぞれの社会の住人しか直接目にすることはできない。
▼では学校生活をともにする級友はどうか。自殺や葬式の練習、度重なる暴行、万引の強要…明らかになった加害生徒の行為は、遊びやフザケ、あるいはイジメのレベルをも超えた犯罪である。その犯罪行為を目の前にして、先生だけでなく生徒たちも見て見ぬふりをした。街中でガラの悪い人が暴れていても、とばっちりを恐れて誰も注意しないのに、子供に犯罪の抑止力になれというのも酷な話だ。
▼いろんな意見がある中で、尾木ママのコメントが一番しっかりしているような気がした。だてにテレビに引っ張りダコなわけではない。「イジメを加害者の側から解決するのは不可能なんです。なぜならイジメをする子は親も同じ価値観の人間だからです」つまり同じ犯罪性向の人間が再生産されているということだ。自殺後の保護者会で校門前で自分の子供をかばうビラを配り、学校側に咬みついた加害生徒の母親のモンスターペアレントぶりはどうだ。まさにこの親にしてこの子あり。加害生徒側は三人とも裁判でイジメを否定している。
▼加害者側からの自発的な反省や更生の可能性は限りなくゼロに近い。仲間の助けを期待するのも無理。先生も全くアテにならない。親も未然に気づくのは難しい。学校や教育委員会もイジメの事実を認めない。警察も被害届を受理しない…腕力というような小さな意味ではなく、総合的な意味において、力のない者が力のある者から受ける理不尽な攻撃に対抗する手段は残念ながらない。それは子供の世界も大人の世界も同じことだ。
▼ここからは個人的な体験になるが、僕もイジメられた経験がある。父の仕事の都合で転校する度にイジメにあった。そのこと自体は、縄張りへの侵入者に対する犬猫の反応と同じ動物の習性のようなものだと思う。低学年のうちは頭のいい子が言い負かす口ゲンカ的な要素が強く、衝突は全て撥ね退けてきた僕も、最後の転校だけはダメだった。高学年になると子供のケンカも文字通り殴り合いになり、ケンカ慣れしている不良が台頭してきたこともあったが、一番には父が単身赴任で不在だったことが大きい。最後の転校だけは新しく建てた家への引越で、家族そろっての転居ではなかった。
▼そこで僕は孤立無援だった。正確に言えばそのように感じた。それまでもそうだったように、父親がいっしょに暮らしていたらケンカの加勢をしてくれたわけではない。それでも父が遠くにいることが致命的で絶望的な気がした。不思議なものだ。そういう意味で、つまり加害者の親や教育委員会が自殺の原因を被害者の家庭に責任転嫁するのとは別の意味で、被害者側になんらかの父親の不在状態があったのかもしれない。
▼家族の形態には親の仕事や子供の教育上の理由のほかに経済的な事情もあり、ほとんどの場合不可避で選択の余地がなく、それは仕方のないことだと思う。僕自身、父がしてくれたことに対して感謝の気持ちこそあれ、恨みの感情は一切ない。それだけ頼りにしていたということだ。ただ、この方面で子供の心の支えになれるのは、父親の存在だけなのだ。僕には腕力も権力も社会的影響力もないが、そのことだけは忘れないようにしたい。
▼「(亡くなった)子供のためにできることは全てやりたい」被害者の父親を今動かしているのは、子を亡くした母親の悲しみとは違った、男親としての後悔であるような気がする。


土曜は混ぜご飯に生姜焼きにアボガドサラダ。日曜はタラコスパにカボチャサラダ。母親としての妻の食育はいつもながら申し分ない。