領土問題

数日来不安定だった天気も落ち着いて、今日はかなり気温が高くなる予報だったが、蓋をあければいい風が吹いて過ごしやすい一日だった。今年の夏はずいぶんラクだと思っていたら、大都市圏や九州では軒並み猛暑日である。僕が住んでいる地方は夏は涼しくて冬は暖かく、一年を通じて気候のいい場所なのだ。むろん避暑地にはかなわないが、贅沢を言えばきりがない。
終戦記念日と相前後して、領土問題が騒がしくなってきた。事実関係としては、まず韓国大統領が竹島(韓国名独島)に上陸し、次に中国人活動家グループが尖閣諸島魚釣島に上陸した。僕はこの件について長らくコメントするのを避けてきたが、昨今のトピックについて感想のひとつも言えないようではブログ書きの名がすたるというものだ。
▼僕はいろんなことを考えるときに、常に「逆の立場だったら」と考えることにしている。北方領土でも同じことだが、実行支配している側の国のトップがその島の土を踏むということは、自国の領土であることを誇示する行為である。石原都知事尖閣を都が買うだなんだと吠えているが、例えば尖閣諸島野田総理が訪れるようなことは絶対にないだろう。
▼香港が中国に返還されてもうずいぶんたつのに、メディアが「中国」ではなく「香港」の活動家と報じるのが解せないが、今回の尖閣上陸のように、他の国が実行支配している地域に民間の活動家が強行突入を図るという事態も考えにくい。「中国保釣島ナントカ」に似たような団体は日本にもあるかもしれないし、領土問題に意見のある人もたくさんいるだろうが、北方領土竹島に上陸しようとまではしないだろう。
▼それは弱腰の日本(の海保や警察)相手なら怖くはないが、ロシアや中国や韓国相手にそんなことをしたら、命がいくつあっても足りないという意味ではなくて、いい意味で日本は、既にそのような活動家の存在を必要としないほど成熟した社会になっているということである。
▼ニュースでマイクを向けられ、「尖閣が中国固有の領土だって主張する理由がわからない。何を根拠にそんな風に思うのか、その感覚が遠すぎてわからない」と網を繕いながら静かに語る日本の漁師と、手錠をかけられたままカメラに向かって「日本の軍国主義を糾弾する!」と叫ぶ中国人活動家に彼我の隔たりの大きさを感じないわけにはいかない。それは埋めるにはあまりにも「遠すぎる」距離だ。言葉の意味内容ではなく、日本にもかつてそのような活動家の時代があったように、発達段階において異なる次元の二つの言葉である。
ニュースステーション尖閣上陸特集という、見るからに場違いな席に呼ばれた作家の高橋源一郎氏が、さんざん待たされた挙句ようやくコメントを求められ、「(尖閣が日本でも中国でも)どっちでもいい」と、これまた場違いな発言をして顰蹙を買っていた。氏は「こういうことはもっと大事なことから目を逸らせるためのもの」と続けたが、僕なんかそんな陰謀史観もピンとこないくらいだ。少なくとも「どうでもいい」と思っている一般市民の数が周辺諸国に比して日本が圧倒的に多いことは確かだろう。是非はともかく、それは幸せなことだと思う。
▼「日本は軍国主義」「クジラは高等生物」「世界革命を実現する」僕も病気だったのでわかるのだが、ある種の妄念に撮りつかれた人たちを説得するのは不可能である。彼らはこれらの妄念を早い時期に植え付けられ、ほとんどの人は完全に信じ切ったまま一生を終える。そのような人たちを前にして、僕は絶句するしかない。黙って距離を置き、できるだけつきあわないようにする。正直なところ、この病気にきく薬は幸福しかないのだから。自分がそれを与えることができる人に対して努力するしかない。

今夜のウチゴハンはナスとピーマンの炒め物にホイールパスタのサラダ。
幸福の範囲を限定する能力については女性の方がずっと上だ。見習わなければ。