結婚の条件

道端に落ち葉が溜まり始めた。その落ち葉が時折風に吹かれて道路を横切ってゆく。見上げれば高い空に雲が斑に広がっている。来るべき嵐の前の小康状態とでもいうような秋らしい空だ。過ごしやすい日和だが、春と違って「穏やかな」という形容はつけにくい。冬に向かう季節には、どこかしら寂しさが漂っている。
▼尊敬する人気ブロガー女史が最近のエントリーで、ルックスも性格もいい感じなのに、学歴と収入が低いと最近の若者が結婚できないことについて考察していた。そして乱暴に言えば、昔はたいした男でなくても全員結婚できたのは、女性がガマンしていたからだと結論づける。もっと言えば、女性は結婚する以外に存在意義がなかったので、たいていの男なら結婚できるのが当たり前だったわけだ。
▼その証拠に、昔はまず女に教育はいらないと言われ、進学する女性の行く先は庶民層で家政科、いいとこで英文科と、どこまでいっても嫁入り道具のための教養でしかなかった。これを読んで僕は、「今では事態は全く逆転しているのではないか」と思った。つまり現在の教養は、さえない男がイイ女と結婚するための唯一の道具、いや武器ではないかと。
▼ところで男女平等社会という建前はともかく、まだまだ男女の役割分担は伝統的な習慣に縛られているところが多い。男女の能力が同等という当然の前提に立てば、質のいい女性が在野に埋もれている可能性はかなり高い。ダイヤモンドの原石がゴロゴロしているのだ。僕の妻である。逆に粗悪な路傍の石ころでも、男というだけで世の中に出ていっぱしの顔をしている人はたくさんいるだろう。
▼そんな僕が妻と結婚できたのは、ひとえにこの結婚の道具としての教養のおかげだと思う。つまらない僕が妻に尊敬のまなざしを得られるのは、苦しかった八年間の東京暮らしの間に呻吟しながら身につけた、妻の知らない文化の薫りだけである。まあこういった文学やら哲学やらいうものは、普通の人からすれば元々女を口説くためのものでしかないらしいが。
▼その昔、まだ失恋の傷も癒えぬうちに転がり込んだエロ本の編集部で、すがる思いでトルストイの「復活」を読んでいると、編集長に「おいおい、これから飲み屋で文学おとしか?」とからかわれたもんだ。いかん、なんだかホントにいいとこのお嬢さんをダマしたどうしようもないダメ男みたいに思えてイヤになってきた。自虐ネタはここらでやめておこう。
▼日曜は現場近くのモスバーガーで仲良くランチ。

わざわざ出てきてくれるのだから僕のことがよっぽど好きなんだろう。
その晩は九州男児の僕のための長崎ちゃんぽんにレンコンサラダ。月曜はレンコンパスタにトウフサラダ。

こうして並べると具がスライドしているだけのようだが、そんな感じは全然ない。なにしろお嬢はレベルが高い。