現代柔侠伝

温かな雨が一転して冷たい雨になり、そして今日は各地に春一番が吹いた。明日からはまた一気に冷え込むという。猫の目のようにめまぐるしく変わる天気も、季節がせめぎあっている証拠だろう。
▼園田監督に続き吉村前強化委員長、徳野コーチが相次いで辞任する中、渦中の女子チームがパリ国際大会へ向けて出発した。斎藤新強化委員長が空港で汗だくになってインタビューに答えていたね。その後ろには男子の井上康生新監督の顔も見える。新しい指導部のスタッフがどんな人物なのか直接には知らないが、斎藤は現役時代に山下の陰に隠れて辛酸を舐めた苦労人だ。それは悪いことではないように思う。
▼勝負事、とりわけスポーツには本番に強い人と弱い人がいる。あるいは強運の持ち主と、けして勝負弱いわけではないがなぜかツキに恵まれない人。柔道選手でいえば山下は別格として、本番に強かったのは五輪三連覇の野村。逆に世界選手権で三連覇しながら五輪にはついに縁のなかった藤井省三のような人もいる。五輪二連覇の内柴も確実に本番に強い部類に入るが、彼は別の意味で本番が好きだった。
▼一般論として、本番に強く試合で結果を残す人は、そのことによって人生全体の収支はマイナスになる場合が多いと思う。誰にでもわかることだが、試合は一瞬で練習は毎日だ。選手生命は短く、その後の人生の方がずっと長い。昨今のハラスメントな人たちの中には、この本番に強いタイプが多いのではないか。自分の成功体験に胡坐をかき他人に押しつける。過去の栄光にいつまでもしがみつく。自分は特別な存在だと思いこむ。
▼今の柔道界は一時期の相撲界のように不祥事が絶えない。僕も中学高校と部活で柔道をやっていたので、柔道家の名誉のために言っておけば、人間的にも立派な指導者はいくらでもいる。中学の柔道部がたまたま全国レベルの学校で、練習は厳しく先生は恐ろしかった。竹刀でぶたれたり平手打ちを伴う指導もあった。けれど体罰という言い方はそぐわない。生徒は罪を犯したわけではないし、先生も生徒に罰を与えているつもりはなかっただろう。
▼柔道などの格闘技が難しいところは、例えば東海大国士舘大のような第一線の大学で、つい昨日まで現役だった若い教師が中学生に稽古をつければ、それだけでもう暴力的な行為になってしまうことだ。ただし僕の先生は感情で手をあげるような人ではなかった。大きな身体そのままにおおらかでさばけた言動に、それまで会った大人にはない魅力を感じたものだ。
▼僕にとって先生は、単身赴任で不在だった父の代役だったのかもしれない。殴られても蹴られても、目をかけられていることがうれしかった。だがそれは歪んだ感情というものだろう。まあ言うほど歪んではいないかもしれない。ともかく子供たちにはそれぞれに家庭的に違った背景がある。暴力を伴う厳しい指導にも耐性のある子とない子がいる。僕は親に叩かれたことはないが、耐性はあったのだろう。
▼僕自身塾で子供を教え、また自分の子供を持った経験から言えるのは、子供に手をあげるのは指導というより怒りの感情からである。暴力は感情にまかせてふるわれるものだ。子供に対して本当に教育や指導の気持ちがあるうちは、むしろ暴力に訴えることに抑制的になる。そしてそのことを一番体言していたのが高校時代の恩師である。
▼先生はついに卒業まで一度も僕をたたかなかった。三年間かけて僕に「大人になれ」と無言で語りかけていたのだと今は思う。僕がUターンして塾の先生をしているという話をきいてとても喜んでいたと人づてに聞いた。結婚式の新郎側代表でスピーチをしていただいた。いつまでもふらふらしている僕を心配して友人の会社を紹介してくださった。
ハンマー投げの室伏か、ブレードランナーのルドガーハウアーのような、まさに鉄人と呼ぶに相応しい風貌だったが、病魔には勝てず十年ほど前に亡くなった。

月曜は焼餃子にドイツパンのアボガドディップ。水曜はヨガカレーで写真なし。そして今日はトマトパスタに照焼チキントースト。

先生、僕は相変わらず子供のまんまです。でも先生のご恩は一生忘れません。