二人だけの世界

昨日の爆弾低気圧はかなりの雨を降らせた。結局打合せが入って完オフにはならなかったものの、約束を朝一番にしてもらい、妻とのデートはランチからのスタート。

ショッピングモールで眼鏡とシャツを新調して新年度らしく気分一新。雨がひどくなる前に引き上げた。
▼一夜明けた今日はやたらに風が強く寒い一日となった。いつものように日曜版をゆっくり読み、朝のテレビを見る。いつもなら「住人十色」を見終わると出かけなければならないところだが、今日は休みなのでそのまま見続ける。フジの報道番組は今週の日銀新総裁の超緩和策発表を受けてアベノミクスとの相乗効果を検証。政権交代以来の円安株高傾向は定着し、直近の興味は中間層以下に恩恵が行き渡るかに移ってきた。
▼僕の実感でも景気は上向き。民間の不動産取引や事業計画が動き出した感はある。だがこんなことをいくらやっても、はしっこい連中が得するだけで、我々以下は単に忙しくなるだけである。日経を購読していて時々違和感を覚えるのは、生まれてこのかた株を買って儲けようなんて考えが一度として頭に浮かんだことのない僕みたいな人間は、まるで非国民のような気になることである。
▼番組のVではネットカフェで暮らす貧困母娘を取り上げていた。一泊二千円、月に二人で12万円の宿泊費に母親の稼ぎは全て消える。それなら安アパートにでも住めばいいのにと思うのは浅はかで、定住するには敷金礼金家財道具一式と、ある程度まとまったお金がいる。いったん無資産状態に陥ると、永遠に割高な分割払いを余儀なくされる。それは家賃に限らずケータイの通信費から各種保険料から僕の無呼吸治療のシーパップリース料まで全て同じ。
▼大資本が無産者をローンでしばってアガリを得る。あらゆるビジネスモデルは究極的にはこのパターンに落ち着く。年金をかたに住居を提供する貧困ビジネスと同じである。信用が手持ち資金の量によって決まる決済システムが変わらない限り、世の中は本質的には変わらない。景気がよくなっても金儲けに意欲的な人が喜ぶだけで、貧困層の状況が変わり、幸福な人が増えるわけではない。
▼18才にもなる娘がバイトすればいいのにと思う人もいるかもしれない。それも浅はかな考えだ。お金がなくて修学旅行も行けず学校を続けられなかった子供が、自分が働くことでお金が稼げるような気がするだろうか。人が社会に出て生きてゆくためには、人間として最低限の自信が必要だ。貧困層にはそれさえ欠けている。かくしてこの階層が生きていくには各種保護を掠め取るような方法しか残されていない。それを不正受給と非難するのは的外れだろう。
▼気が滅入ってチャンネルを日テレに変える。こちらは報道色はゼロ。スタートから三年、番組改編期にもかかわらずヒデちゃんと片瀬那奈のコンビが変わらないのは視聴率がいい証拠だ。ここには現代社会をうまく渡っていくために必要な個人の資質についてのヒントがある。男ははしっこい機転とおべんちゃらを言う才能。女は結局バカでも容姿が全て。片瀬那奈はスタイルだけなら当代随一である。さすが日テレ、フジを抜くはずだ。
▼子供たちは早々に部活に行き、妻もジムへ。僕は映画を観に行く。昨年のカンヌパルムドール受賞作、ミヒャエル・ハネケ監督の「愛、アムール」。一言でいえば老々介護の話である。

楽家夫妻の妻が要介護の車椅子生活になる。夫は献身的に介護するが状況が好転することはなく妻は次第に衰弱していき…。
▼老妻役の女優が素晴らしい。愛らしく、気品がある。病院に入りたがらず、不自由な身体を夫以外の人に見せたがらない。オープニングは突然救急隊が夫婦の住まいの扉をぶち破るところから始まる。目張りのしてあったその部屋には、花で飾られたベッドにドレスを着せられた老女の遺体が横たわっている。それから物語が始まる。妻に最初の兆候が現れたのは、夫婦で教え子のコンサートに出かけた晩のことだ。帰宅すると空き巣狙いがドアをこじあけた形跡がり、妻はひどく怯える。
▼二人だけの世界に閉じこもるのは危険なことだ。だが経済的に、あるいは年齢的に、外の世界に出ていくのがたいへんな人たちもいる。優雅な音楽家夫妻の生活と、貧困母娘のネットカフェ暮らしはまるで別のものかもしれない。だが悲惨な状況の前には芸術も無力だ。それが証拠に妻は弟子から送られてきたCDを聴くのを途中でやめ、夫は病床の妻のために弾いてやるピアノを最後まで続けることができない。夫がCDを聴きながら見るのは、元気な頃の妻がピアノに向かう白昼夢である。現代社会は弱者に厳しい。これは人間の尊厳の問題である。

土曜の晩餐は青梗菜と豚肉のパスタにガーリックトーストにアボガドサラダに新玉のスライスに蕨のおひたし。その日外で食べたお店のランチよりずっとおいしかった、