映画、台湾、本を返す

天気は下り坂。雲が多く少し寒いくらいだ。昨晩、東北に行っていた仲間と痛飲したので二日酔いである。午前中はベランダに面した居間でウトウト。ひんやりしたフローリングが気持ちいい。
▼23年前のちょうど今頃の季節に、僕たちはつきあい始めた。いや、つきあうというにはあまりに不器用な、僕の初恋だった。なにしろそれまでまともに女性とつきあったことがなかったのだから、初恋にはちがいない。ただ見栄っ張りの僕はそのことを彼女に打ち明けることができなかった。勝手に好きになって勝手に諦める片想いというのはあっても、だから失恋だって初めての経験だ。
▼きっかけは海外から帰ってきた友人と映画を観に行った日のことだ。台湾ニューウェーヴの巨匠、侯孝賢監督の「非情城市」。深緑の山々が蕭々と降る雨に煙るシーンから始まる美しい映画だ。

彼女とつきあい始めてから、僕はもう一度この映画に彼女を誘った。その後同じ監督の作品は全て見たが、これ以上のものはなかった。それは失われた時を探すに等しい行為だからかもしれない。
▼映画を観た僕と友人は、当時流行っていたオープンテラスの台湾料理店「台湾担担麺」で食事をした後、マスターの店に行った。彼女はそこで店番をしていた。マスターはいなかったので、まだ早い時間か、もしかすると日曜だったかもしれない。友人が先に出て、僕と彼女が勘定のやりとりをする短い間に、彼女は僕を映画に誘ったのだ。「今度の日曜日、映画観に行かない?」彼女は黒と白の水玉のブラウスを着ていた。その時の彼女の不安そうな顔を今でもよく覚えている。
▼初デートの待ち合わせは中野駅。どんよりと空の重い午後だった。改札に彼女が現れた瞬間、モーゼの十戒のように人波が左右に開き、彼女だけが動いているように見えた。映画館は商店街を真っ直ぐ行って右に折れた武蔵野館。マスターの映画学校の後輩の初監督作品である。その監督と、僕は一度お店で隣り合わせになったことがある。カウンターに入っていた彼女は当然顔見知りだったにちがいない。とてもきれいな目をした人だった。
▼映画を観た後、僕は彼女を馬場の「欣葉」という台湾料理店に連れていった。彼女はピンクのスカートに紺のブラウスを着ていたような気がする。それ以前もお店のカウンター越しに、時には隣同士で話すことはあったが、その日初めて彼女について知ることも多かった。僕は食事の前に彼女から借りていた本を返したのだった。いつかお店からタクシーでいっしょに帰った時に借りた本だ。初デートなのにどうして僕は本を返そうとしたんだろう?三ヶ月後、僕は彼女に借りたまた別の本を返すためだけに彼女と会うことになる。
▼今までも折りにふれて彼女のことは書いてきたが、匿名を基本とするボクログで、ここまで固有名詞を羅列したことはなかったと思う。映画のくだりを読めば、いっしょに行った友人なら僕とわかるかもしれない。あるいはマスターも僕のことがわかるかもしれない。でもおそらく僕が知らせなければ偶然気づくということはないだろう。多くの人にとって他人の恋路などどうでもいいことだからだ。彼女はどうだろう。彼女は僕に気づくだろうか。僕のことを覚えているだろうか。彼女の立場になって自分のこととして考えてみる。最初は魅力的に見えたけど、ちょっとつきあってみるとすぐに地金が見えて幻滅した異性との、二十数年も前の細々を覚えているものだろうか。
▼若い頃に離婚した妻の友人が、いまだに「一番好きな人と結婚できてよかった」というセリフを口にするので、「また同じこと言ってる」と笑い話になっているが、失恋とはほとんど身内との死別に近い感覚ではないだろうか。いつまでも引きずるというわけではないが、まさか命日を忘れてしまうことはないだろう。生き別れでフラれた方は、実際には相手が生きているだけに心の持ち様が難しい。逗子のストーカーは八年間時間が止まったまま、結局無理心中の道を選んだ。妻の友人も僕も、二十年以上の長きにわたり、毎年あの頃の自分という身内の供養をしているようなものだ。
▼23年前の今日もこんな曇り空だった。僕は彼女と映画を観に行く。また彼女との23シーズン目が始まる。

金曜はネバネバソバにカボチャのチーズ焼き。