見果てぬ夢

土曜、日曜とついに最高気温が30度を割った。早すぎた猛暑もとりあえず一服である。冷房好きの妻もさすがにこの週末はつけると言わなかった。普通ならまだ梅雨があけたばかりの夏はこれからという時期である。今日は一転蒸し暑くなったが、暑さの次のピークは八月になってからだろう。
▼昨日は今夏最後の日曜日。気持ちのいい風がふんわりとカーテンを膨らませる。とにかくゆっくり休めと神様が特別にはからってくれたような日和だ。妻はジム、下の子は野球部の練習試合、上の子は全校生徒で野球部の応援だ。サッカーが台頭してきた現在でも野球は特別なスポーツだ。午前中いっぱいで増田先生の木村政彦伝を読み切る。
▼本書は史上最強と謳われた柔道家木村政彦の人生を追いながら、同時に戦前古流柔術の一流派にすぎなかった講道館が、いかにして柔道の唯一絶対の家元となっていったかの経緯や、戦後木村たち柔道家が先鞭をつけたプロ格闘技の道を、興行的な嗅覚に優れた力道山に一気にさらわれてしまう様子などを活写している。
▼どんなに強くても、人間である以上完璧ではない。鬼と言われた木村も、その師牛島辰熊も例外ではない。たったひとつの瑕疵ですら胸の疼きは消えず、悔恨は次の世代に持ちこされる。展覧試合制覇の夢は牛島から木村へ、力道山への怨念は木村から岩釣へ。そして増田氏は木村政彦復権させることで、自らが体験した寝技中心の高専柔道を世界最強の格闘技の原型に位置付けたい。
▼本書に登場する錚々たる道家の中で、僕も実際に手を合わせていただいた方がひとりだけいる。大学では柔道を続けなかった僕だが、一年次に体育の授業は当然柔道を選んだ。指導教官は、かつて小兵ながら全日本選手権に何度も出場し、今様牛若丸と言われた大澤慶巳先生だったが、その時の僕には当時緒についたばかりの女子柔道の監督という認識しかなかった。
▼大澤先生は一年間の授業で一度だけ稽古をつけてくださった。体格は僕とほぼ同じ。年は本の中で平成5年に75才で亡くなった木村政彦が69才の時に60才の大澤先生と飲んだエピソードが記されているから、85年当時は57才くらいだったことになる。その時18歳の僕にはおじいさん見えたが、そんなに老け込む年でもない。現に僕では相手にならなかった。
▼先生は防御のために腰を引いたり組手を嫌ったりしていないのに、こちらは技をかけることができない。柔らかい組手でまるで力を入れてないのに全く隙がない。大澤先生は僕に好きなところを持たせてくれたが、窮屈に感じて自分から組手を切ったりしているうちに終わってしまった。先生は一言「組手を切るのはうまいな」とおっしゃった。確か当時八段だったと思う。「昔の高段者の柔道ってこんな感じなんだ。僕のは試合用の亜流だ」と大いに落胆したものだ。
▼ともかく格闘技には人を夢中にさせる何かがある。一浪していっしょに柔道を選択した高校の柔道部の先輩は、すぐに「柔道部に入る」と言い出した。結局両親に猛反対されて頓挫したが。就職試験で上京してきた中学の柔道部の同期は、留年してフラフラしている僕を見て「まだ柔道が終わってないんだね」と言った。強豪校に進んだ彼は寝技を鍛え上げ、層の厚い軽重量級でインターハイベスト8までいった。僕と同じで大学では柔道をやらなかったが、高校で既に手を抜いた僕と違って完全燃焼したのだろう。
▼格闘技は結局のところ時代と社会に虐げられた人々の夢であり希望である。黄金期のプロレスに求められていたものが、苦難を経てヒーローが勝利する筋書のドラマだとしたら、維新軍団下剋上に沸いた頃は社会階層が固定化されつつあった。リアリティに欠ける現代に求められているのは、ひとりのスターではなく真剣勝負というフィールドそのものである。全てが予め決定された社会に、どんなに小さくても作りものではない世界が存在してほしいと願う一縷の望みなのだ。
▼著者の増田氏はこの本を書いた動機を「柔道経験者としてプロレスより柔道が弱いと認めたくなかった。力道山の謀略に木村政彦が負けた真相を明らかにすることでそのことを証明したかった」と書く。しかし勝敗は当事者の意志を超えた様々な思惑の結果である。もっと言えば国民のほとんど全てが力道山の勝利を望んでいたのだ。「本当は」どっちが強いかということはもう関係ない。
▼強さへのこだわり、憧れは、全ての男子に共通のものだ。増田先生の熱さには到底及ばないが、僕だって例外ではない。大なり小なり男はみな、それぞれの小さな土俵であいつより強い弱い、勝った負けたと一喜一憂しているのだ。だから誰が一番強いかという議論は永遠にやむことはない。自分が肩を持つ方が強ければ、自分が強いような気にもなる。だがそれは錯覚だ。
▼ここ数日、増田先生のおかげで忘れていた日々を思い出すことができ、随分楽しませてもらった。だがもうよそう。きりがない。

土曜は和風パスタ。

日曜はカレーパイにマカロニサラダ。