不器用ですから

暑い暑いというが、東北や北陸はようやく梅雨が明けたばかりの、夏はこれからが本番である。今後は再び高気圧の勢力が強くなるという。今現在弱まっている感が全然ないので、いったいどんなことになるのか本当に恐ろしい。外気温は遠からず40度を超えるだろう。外出禁止警報やバカンス制の導入も視野に入れてしかるべきだ。
▼先日、夏休みで帰国中の親友と久しぶりに電話で話した。去年の正月以来だから約一年半ぶりに聴く声だ。現在の任地はケニアらしい。ケータイの声が少し聴き取りにくくて、「最近耳も目も悪くなって」とボヤクと、「オレも老眼だよ」という。二人とも八月で47になる。気持ちだけは知り合った頃と変わらないが、もうけして若くはない。
▼高校一年の時同じクラスになって妙にウマがあった。大学3年の時父親を亡くして、彼もずいぶん苦しんだだろう。それまで司法試験の勉強をしていたのが、留学とボランティアを体験し、そのまま世界の子供たちの命を繋ぐために働いている。27の夏、いっしょに韓国に行った。結婚は僕が先だったが、じきに彼も結婚し、帰国の際は共通の友人も交えて家族ぐるみでキャンプに行ったりしたものだ。愛娘は下の子と同い年である。
▼37の時、僕は彼を通じて知り合った友人の縁故を頼って転職した。数年後、僕も本当に驚いたのだが、奥さんが不慮の事故で亡くなってしまった。数奇な人生である。僕が彼の立場なら、きっと自分が世界で一番不幸な人間であるかのような顔をして、身を持ち崩したに違いない。波乱万丈の人生だ。しかし彼は全然そんな風には見えない。いつも穏やかで、奇をてらうところがひとつもない。ごくごく普通なのに彼もまた、「あんな人もいるんだな」という形容がよく似合う人物である。
▼一番のニュースは、東北の震災で知り合った人とつきあっているという話。既に娘さんにも会わせたという。お母さんと娘さんが住んでいる実家と、彼女が住んでいる場所の距離もそんなに遠くないようだ。彼はおくびにも出さないが、ひたすら不器用に転がり走り続けてきたのだ。相当に疲れ、傷ついているに違いない。彼の今後の人生が幸多きことを願わずにはいられない。
▼さて、もうひとりのサムライのことである。先日ついに僕が担当している事業所に詰めている守衛さんに、増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」を読んで以来の疑問をぶつけてみた。「拓大とおっしゃってましたけど、もしかして木村先生の教え子ではありませんか?」「そうだよ」「じゃあ岩釣先生は…」「岩釣は同期だ」ビンゴである。
▼「失礼ですけどお名前は…」黙って名札を示す。そこには岩釣、田端と並んで本の地の文にも記されていた名前があった。著者の増田先生の取材も受けているに違いない。正真正銘、木村政彦が拓大に復帰した年の最初の新入生であり、全日本学生を制したメンバーである。「まあこんなことはあんまり言いたくないんだ。あんたが柔道経験者だって言うから話すけど…」そう言って、彼は木村先生と岩釣さんの話を少しだけしてくれた。
▼折しも不祥事続きで全柔連上村春樹会長が辞任を表明したばかりである。テレビに映る専務理事の席には、岩釣最大のライバル佐藤宣践の顔も見える。僕が中高の現役のころ活躍した山下は、その佐藤の教え子だから、一世代も二世代も上の世代である。
▼僕も大澤先生に稽古をつけていただいたエピソードを話した。「大澤先生はともかく早稲田に強いやつはいなかったな」僕の師が生きていれば同じくらいの年齢だと思ってきいてみた。「中高の先生は国士舘出身でした」「まだあの頃は国士舘は二流だったな」そうかもしれない。いくら中学の柔道部が名門だったとはいえ、僕とは柔道家としての格が違う。
▼戦後の混乱期にプロ柔道を旗揚げし、プロレスに転向して力道山の噛ませ犬にさせられた木村政彦。その愛弟子で世界選手権を制した岩釣も経済的には困窮を極めたらしい。警備員の彼は拓大を卒業した後、このあたりのKに入社して柔道部を作り、実業団で2位になったこともあったらしいが、会社の業績の悪化に伴い廃部になったという。紳士然として助成金の不正受給に手を染める現全柔連理事たちとは別の、不器用なサムライたちの系譜が確かにある。

土曜は焼肉に春雨サラダ。

日曜はそぼろゴハンにラビオリサラダ。