青い影

この週末は寒さも緩み、ポカポカ陽気の小春日和となった。もちろん僕は土日とも仕事である。小春日和のことを僕は、長いこと春先の暖かい日のことだと思っていた。だがたしかに春に小春ではおかしい。冬なのに春のような陽気という意味だ。つまり今は冬なのである。週明けは雨になりそうだ。
▼先日のSONGSはユーミン特集だった。昨年デヴュー40周年を記念して、ベストアルバム「日本の恋と、ユーミンと。」を発売したユーミンは、今年41年目の新たなスタートをきるという意味で、ニューアルバム「POP CLASSICO」を発表した。温故知新。ニューミュージック界の大御所も来年還暦を迎える。
▼早熟の人である。18才で名曲「ひこうき雲」を出した。最近宮崎駿監督の「風立ちぬ」の挿入歌として話題になったあの曲である。22才で松任谷正隆氏と結婚したのを期に荒井由実時代の曲をまとめたベストアルバムを、近所の親戚のにいちゃんから録音してもらったのが、彼女とひとまわり違う僕が10才の時。以来バブル絶頂期のキリンビール協賛ツアーを、満員の代々木体育館の天井桟敷席から双眼鏡で眺めるまで、ずっと同時代に彼女を見てきたはずなのに、全くそんな気がしない。
▼「春よ、来い」で円熟の境地に達した彼女が極端に完成度の低いアルバムを出し始めたのは、僕が結婚してからのことだ。それからユーミンはサーカスのようなコンサートツアーをやりはじめた。上の子がまだ小さい頃、妻に手を引かれてユーミンのコンサートを観に行ったことがあった。彼はセンターステージから降りてきて歌うユーミンの目の前で熟睡していたそうだ。おそらく21世紀に入る頃のことだ。もうこの頃にはユーミンの神通力に陰りが見えている。少なくともうちの子には通用しない。
▼それからさらに10年。あの生煮えのアルバムを出している頃までは、サウンドアドベンチャーで「毎年1枚ずつ出したい」なんて言ってたのに、この頃からベストアルバムが増えてくる。ドラマ「ダンダリン」の主題歌を含むニューアルバムは、久しぶりに聴くに耐える水準にまで練れているものの、僕には彼女がコワゴワ音を置きにいっているような気がしてならない。
▼SONGSは、ユーミンがパリのミュージアムでモネの睡蓮を見ている場面から始まる。睡蓮だけを何度も描き続けたモネのように、彼女もまた同じテーマを形を変えて曲を作り続けたいと考える。テレビ画面越しにも見事なモネの睡蓮に思わず息を飲む。まるで360度パノラマの水族館の底にいるようだ。僕は思う。ポップスは絵画芸術とは違う。どうしてミュージシャンにはアスリートのように引退がないのだろう。ユーミンがいつまでも歌い続ける必要はあるのだろうかと。
▼またこうも考えた。感情が高ぶることと感受性が豊かなことは全く別のことだ。番組の中でユーミンはやたらに泣いていた。若い頃自分が通った美術予備校を訪ねては泣き、パリのカフェでシャンソンを聴いては泣き、レコーディングで自分の曲を聴いては感極まって泣く。涙腺が弛みきっている。これは敏感な感受性の特徴というより、老化の特徴である。
▼そんなユーミンの対極にいるのがうちの長男である。長男の涙腺はガッチガチだ。個人差はあるかもしれないが、若いうちはよほど自分に酔ってる人でない限り、簡単には泣かない。興味のベクトルが内より外に向いているので、外界の刺激に驚いたり悦んだりすることに忙しくて泣いてるヒマがないのだ。彼女も若い頃はそうだったはずだ。まだ荒井由実の頃は。友人の死にもクールに向き合い、泣きはしなかった。そして「ひこうき雲」が生まれた。
▼この番組でユーミンのルーツが、楽曲としてはプロコルハルム、歌詞としてはジャック・プレヴェールだということがわかった。プロコルハルムは詳しく知らないが、プレヴェールは有名な「枯葉」の歌詞を書いた人だ。数多の前衛的な芸術家を輩出した20世紀前半のパリで、どちらかといえば旧来の手法で抒情的な散文詩を書いた人。本質的にはシャンソン(歌謡曲)の歌詞の書き手である。そのプレヴェールの詩が、彼女にとってはマラルメランボーよりリアルだった。
▼プレヴェールの詩とプロコルハルムの楽曲が、あるひとりの少女の感性のフィルターを通して1970年代の日本に結実したもの。それが荒井由実という一瞬の輝きなのである。

土曜はチキンサラダに大根の煮物に春雨スープ。

今日は手作りボロネーゼにバターパン。